レンブラントの朝 6






 レンブラント翁は眠っている。
 深いモスグリーンのベッドに沈み込んで、眼をつむる年老いた老人の横には、点滴がぶら下がっていて、規則正しく液体が落ちていく。
 それをじっと見ている紘和の、頭をぐしゃりとかき混ぜる人間がいた。
「大丈夫だ」
「樋口」
「旦那様も眠ってて倒れるなんて器用な方だな」
「笑い事か」
「むっとするな、ばか正直者が。こういうときは笑っとけ」
 樋口は、紘和の旧友だ。
 レンブラント翁の主治医は樋口の父親だが、最近は樋口が来ることが多いのは、もう手の施し様がないからなのかもしれない。樋口自身が紘和の旧友だから、来させやすいというのもあるのだろう。どちらにせよ、こういう場面でいてくれるのが樋口であることに安心する。
「旦那様は眠っているとばかり思っていたんだ」
「眠ってたんだろう。まあ、よくあることだとは言い辛いが、全くないとも言わないな」
「詠さんが気付いてくれなければ……」
「動けなかったんだろう、お前」
「ああ」
「そうだと思った。詠様に感謝しろよ」
 樋口はそう言って、ベッドサイドに立つ二人とは少し離れた椅子に座り込んでいる詠を見た。
 詠と樋口の目が合う。
 詠は困ったような顔をして、少しだけ首をかしげた。
「俺は何もしてないよ」
「こいつは振り返れなかったんじゃないですか? 旦那様のことを」
「…………」
「恐いんですよ、こいつは、旦那様がいなくなってしまうことが」
 ぐしゃりと、もう一度樋口は紘和の頭を混ぜ返す。
 むっとした顔のまま樋口をにらみつけると、斜め後ろからじっとこちらを見ている詠の顔が見える。さきほどのことを思い出すと、少し照れ臭い気もする。
「俺がいるのに」
「そうですね、詠様が現れてくれて、紘和はとても嬉しいことでしょう。ありがとうございます」
 詠は何も言わず、部屋を静かに後にした。
 ややあったあと、くつくつと喉の奥で笑う声がする。
 樋口ではない、ましてや紘和でもない。
 さきほど倒れた老人のものだ。
「素直なやつめ」
「!」
「気付かれましたか、翁」
「椅子の上で眠っていたと思っていたんだが、いつの間にわしはベッドの上に移動したんだ?」
「倒れられたんですよ、翁は。おたくの秘書が大慌てで私を呼び出して、ここに私がいるというわけです」
「久しぶりだな」
「ええ。申し訳ないですね、父ではなくて」
「お前でもお前の父親でも変わるまい。応急処置のみだろう。わしはもうゆっくりゆっくりあちらへ行っているからな」
「伯父上」
 咎める響きを持つ紘和の言葉に、小さく首をすくめつつ、翁は笑う。
「紘和、仕方のない話だ。わしはもう若くない。老いぼれは朽ちていくんだ。この世に存在するということは、いつか朽ちて消えるということだ」
「だからといって、そういう言い方はなさらないでください」
「そうだな。悪かった」
 紘和と樋口は目を丸くして、一時、動きを全て止めた。
 翁が謝ることなど、滅多にない。逆に慌ててしまう。
「謝られないでください。驚きます」
「ははは。お前が驚く顔を見るのも、そろそろ見納めだからな。わしに色々な顔を見せてくれ。樋口もだ。詠の顔も見たい。詠も呼んでくれんか?」
「はい」
 静かに生を諦めつつある翁の言葉を再び咎めることもできず、紘和はベッドサイドに動かしてあった椅子から立つ。
 その場を樋口に任せて、退室してしまった詠を捜した。
 部屋を見ても、居間を見ても、厨房を見ても詠はいない。
 さては庭かとざっと見て回ったが、なぜか見当たらない。庭師に聞いても厨房でコックに聞いても、詠は見なかった、と皆一様に首を振る。
 屋敷中を探すわけにもいかず、紘和はとりあえず自分の部屋に戻って監視カメラの設置してあるセキュリティールームの鍵をとりに行くことにした。
 セキュリティールームには紘和以外は入れないようになっている。
 紘和は、一日のうち六回そこに出入りし、録画されているビデオを見直す作業を行なっている。そのときのための鍵だ。
「どこに行かれたんだか……」
 呟きながら部屋のドアを開けると、そこには詠がいた。
 予想外のことだったので、紘和はひゅっと息を飲んで、眼を丸くしてしまう。
 そんな表情を見て、詠が笑った。
「今の、かわいい顔」
「詠さん。どちらに行かれたのかと」
「じーちゃんの部屋を出て、すぐこの部屋に来た」
「ここは私の部屋なのですが」
「そう。紘和の匂いのする部屋」
「?」
「樋口さんと一緒にいるときの紘和って、俺と一緒にいるときと全然違うよね。だから、すごく嫉妬しちゃって。いつもの俺の知ってる紘和を思い出すために、この部屋に来たんだ」
「嫉妬ですか」
「俺、紘和のこと好きなんだよってあんなにいっぱい言ったでしょ」
 詠は、苦笑いを浮かべながら紘和をぎゅっと抱き締めた。
 抱き締められて、紘和はなぜか目頭が熱くなるのを感じる。そのまま、涙が溢れてしまった。
 泣くことなど、何年ぶりのことだろう。
 生まれて以来なのかもしれない。泣くときにはどんな顔をすればいいのか、誰も教えてくれなかった。だから、泣くときの自分の顔を知らない。ものすごくみっともないかもしれない。
 そんな顔を見られたくなくて、詠の肩に顔を押し付ける。けれど、小刻みに震える体まで抑えることができずに、詠に気付かれてしまう。
「どうしたの」
 詠は驚いただろう。しかし、穏やかにそう尋ねるだけだった。優しくくるむように抱き締めて、紘和の背中を大きくなでる。
 呼吸がとても楽になる。
「紘一郎様が、私を置いて、あちらへ、行こうと」
「じーちゃん、そういう時期だよね」
「時期、だなんて。やめてください」
「他になんて言えばいいの」
 優しく問われて、何も言えない。
 おさまりかけていた嗚咽がまたぶり返して、紘和は子供のように泣いてしまう。
 しかも、子供の頃にこんな風に泣いたことなどないのだ。
 子供ならば誰にでもある当然の権利がなかった紘和が初めて泣ける場所を得る。そんな存在の詠がまだいるのか、と思うと、紘一郎がいなくなってしまったときに感じるだろう孤独も少しだけ和らぐような気がした。
 それでもまだ、ひどく寂しい。
「何で泣きたくなったの?」
「紘一郎様が、もうあちらに行きかけているとおっしゃって……」
「そっか」
「私は、あなたがいるけれど、それでも。また一人ぼっちになってしまう」
 一人ぼっちはもう嫌だ、と紘和は強く思っている。
 紘和が今の紘和である理由は、その一言に集約されていると言ってもいいのかもしれないぐらいに。
「紘和」
「……はい?」
「いつか俺とふたりぼっちって言えるようになって。今すぐじゃなくていいから」
 紘和の首筋に詠の鼻先がこすりつけられる。
 柔らかな鼻の先は、少し冷たい。紘和は思わず身体をびくりと震わせてしまう。
「紘和が俺とふたりぼっちで、寂しいけど幸せだって言ってくれるのを待ってる」
 何も言えなかった。
 けれど、紘和もそっと鼻先を詠の首筋にこすりつけて、承諾したのか否定したのか、わからないような曖昧な仕草で返事をした。



 詠を伴って、紘一郎の寝室に戻る。
 樋口は、枕元の椅子に腰掛けていたが、無言でその場を離れ、その椅子を詠に薦めた。
「起きたんだ?」
「ああ。お前たちに言うことがあってな」
「何」
「わしの遺産は全てお前に譲ろう。吉井紘一郎の後継者はお前だ、詠」
「……じーちゃん」
 詠がふいに悲しい顔をした。それをちらりと見て、紘一郎はゆったりと微笑む。
 何かを諦めているような、そんな表情にも見える。
「湿っぽいが、遺言だ。遺言は大事だろう」
「遺産とか、あんましいらないんだけどな」
「そう言うな。紘和がいれば、なんとでもなる。紘和はそうできるようにわしが育てた」
 目をゆっくりとまばたかせながらそう告げるのを、詠は少し複雑な表情で見ている。しかし、紘和はその発言でも嬉しかった。
 翁に認められている。
 後継者の手伝いをするに足る人間だと思われている。
 それだけで充分なような気さえする。
「なあ、詠」
 紘和と翁を数度見比べていた詠が、慌てて翁に目線を戻す。
「何、じーちゃん」
「紘和を頼む」
 その言葉に驚いたのは紘和だった。
 紘和、詠を頼む。
 それがやってくる言葉だとばかり思っていたのだから。
 椅子に腰掛けている詠の横で呆然としている紘和に、紘一郎は笑いかけると、その手をすっと取った。
「お前に肉親を遺してやれて良かった」
「……伯父上?」
「詠とお前が仲良くなってくれなければ、孫探しに躍起になったのは無駄だったからな。わしが死ぬ前の心配事はただ一つ。お前のそばに家族がいなくなったらどうしようかとそう思うことだけだった」
 紘一郎が満足そうに微笑む。
 詠が愛した女性の本当の孫だったと知ったときのように。
 紘一郎が孫探しを始めたのは己のためではなかったのだ。
 最期に紘和のためを思ってくれた。
 そのことが紘和の、先ほど泣いたせいで少し緩んでいた涙腺を更に緩ませる。
「紘和? 泣いているのか?」
「伯父上、ありがとうございます」
「………そうか」
 紘一郎はゆっくりと目を閉じた。
「お前、やっと自分がわしの家族だったことに気付いてくれたんだな」
「はい」
「死に際の老人に、何て心臓に悪いものを見せるんだ、紘和」
「心臓に悪いものって何です?」
「お前の涙だ。初めて見たぞ」
「初めてお見せしましたよ」
「泣かれたら、どうしたらいいのか分からん」
 目をつむったままの紘一郎は、本当に困っているかのように眉を寄せた。
 そんな仕草がおかしくて、紘和は思わず吹き出してしまう。吹き出して笑う紘和の顔を驚いた表情で見つめたのは、何も紘一郎だけではない。
 詠も樋口も、目を丸くしている。
 それがまたどこかおかしくて笑いが止まらなかったが、それでも何とか落ち着けて紘和は穏やかに微笑んだ。
「伯父上」
「何だ」
「どうぞ、困ってください」
「嬉しそうにそんなことを言うな」
「私はいつもあなたに困らせられてばっかりだったんですよ。たまには逆のこともしてほしいですね」
「小言の多いやつめ」
 紘一郎はにやりと笑い、詠に目を向ける。
「早くわしの絵を仕上げてくれないか、詠。そうしてくれないとわしはあの世に行けない」
「あの世に行くのを早めるわけにはいかないんだけど」
 紘和の冷たい手のひらをきゅっと熱い手が握り締める。
 椅子に座って目線を紘一郎に向けたままの詠だ。
 紘一郎が死を示唆するような言葉を言う度にかすかに強張る紘和の身体に気付いたのだろう。詠は本当に、真っ直ぐで優しい、と紘和は思う。
「もう時期はとっくに来ているのだ。見ないうちに死んでしまったら、わしは心残りでこの家にとり憑いてしまう」
「とり憑かれるのはやだな」
「そうだ、わしがとり憑いたらお前と紘和の仲を邪魔してやるんだからな」
「……じーちゃん、俺頑張って描くから、必ず大往生してよ?」
 詠は嫌そうに眉間にしわを寄せて、紘和の腰をぎゅっと抱き寄せた。
「詠さん、そういうことを人前では決してなさらないでください」
「人がいなくたってさせてくれないだろ」
「その通りです」
 詠を腰に張り付かせたまま、紘和はいつもの調子の涼やかな声でそう告げた。






 ずっしりと重いマホガニーのドアを開けて、部屋の中に入り、内側からドアを見る。
 すると、ドアを挟んで、右を向いているのはサスキア。
 左を向いているのは、白いひげをたくわえた、鼻の高い老人。
 紘和はその絵をかわるがわる見て満足げに微笑むと、開け放たれたままのドアからゆっくりと外に出る。
 真鍮製のずっしりと重たい鍵を静かにかけて、じゅうたんの敷かれた静かな廊下を元来たように戻っていった。
 戻っていくと、サンルームがある。
 そこで、うたたねをしているのは絵の老人に良く似た青年だ。
「詠さん」
「今日はいい天気で気持ちいいなー」
「こんなところでうたたねはなさらないでください」
「じーちゃんの絵、どうだった?」
「幸せそうですが」
「そりゃそうだよ。俺が幸せな気持ちで描いたから」
「そうですか。それは結構ですね。それでは、幸せな気持ちでお仕事をなさってください。一昨日お渡ししました、至急に決裁を要する書類がなぜかまだ詠さんのお机の上にあったのですが」
「あ、やばい、風邪ひいたかも」
「そうですか。それでは樋口を呼びましょう」
「それは嫌だ」
「では、言うことを聞いてください」
「紘和がキスしてくれたらいいよ」
 詠が目を開けて、紘和を見つめる。
 紘和は、仕方がないので笑った。
 

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