レンブラントの朝 5






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 泣くまい、と思っていた。
 大体、どうやって泣けばいいのかなど分からない。
 まず、泣いた顔というものを見たことがないのだ。つまり手本がない。
 この世に生を受けてすぐにいなくなってしまった母親の顔は、写真の中で微笑んでいる一つの表情しか知らない。
父親は生きてはいるが好き勝手なことばかりやっている、と祖父が苦々しげに言うように、会うといつもへらへらしていて、上機嫌のまま紘和の前から姿を消すのだ。結局、両親ともに一つの表情しか見たことはなかった。
 その代わりのようにそばにいてくれた祖父も頑固な昔気質の人で、むっつりと押し黙った顔が定番だった。
 紘和は小学校に入って友人との交流というものを知るまで、微笑とにやけ顔と不機嫌な顔しか記憶していなかった。
 そんな生活の中で、祖父がふいにこの世を去った。
 どこにいるのか生死すらも不確かな父には連絡をとることも出来ず、それなりに蓄えのあった祖父の財産を持って途方に暮れていた。
 財産などいらなかった。欲しいならば父にでもくれてやればいい。どこにいるのか分かれば、の話だけれど。
 何よりも一人が嫌だった。
 皆に置いていかれる。年嵩の者が先に消えてゆくのは知っていた。けれど、知っていてもどうにかしたかった。母親はもう少し待っていてくれれば良かったのに。父親はもう少しそばにいてくれれば良かったのに。
 家族に恵まれない子。
 その言葉をどこかで聞いたことがある。そして紘和はそれが自分だと思った。ぴったりだ。自分は家族に恵まれない子なのだ。
 財産と祖父が引き換えになるのならば交換しても良かった。けれど、人の命とはそういったものではない。それを知ってしまっている、年の割に聡明な自分が嫌いだった。
 わがままが言えれば良かったのに。
 何も知らずに、人や自分をふいに消してしまうような無邪気な狂気でもあれば、もっとそんなチャンスを待ちながらこの世界を生きれたのに。
 一人だと自覚することほど、13の子供には耐えがたい苦痛はないということは分かっていたのに。
 そんな鬱々とした気分に手を差し伸べたのが祖父の兄だった。
「子供を育てたことは無いので何もわからんが、わしの役に立とうと思うならばそばにいろ」と、居丈高にそう告げた紘一郎の手をとれた事を、紘和は後悔したことなどない。
 けれどこうして詠を大事に大事に甘やかしている紘一郎を目にしてしまうと、恨んでしまうのだ。詠を。
 愛してくれるか? と詠は聞く。
 けれどそれは難しい相談なのだ。
 欲しかったものを全て持っている詠を、羨むことは辛うじてなくとも、愛せるようになるとは紘和にはどうしても思えない。
 紘和は目に見える愛情が欲しかった。
 それをくれるという詠にすがるのが一番いいのだろうとは分かっている。けれど、詠だけは駄目なのだ。
 欲しいものを全て持っている人にはすがれなかった。どうしても。


    **



 
 紘一郎と詠は午前10時になるとデッサンのために部屋にこもる。
 横顔のサスキアと対になる形で描こうと詠が言い出したので、乗り気の紘一郎はまだ眠そうにしている詠を叩き起こしてでもその作業を始めさせる。
 無邪気な紘一郎を見るのが珍しくて、初日は紘和も付き合ったが、次の日からはそういうわけにもいかなくなってしまった。
 仕事がある。
 それに、1日紘一郎を見ていて気がついてしまったのだ。
 彼は1日椅子に座っているだけでももう苦しいのだ、ということに。
 そんな姿は見たくなかった。
 エゴイズムなのは分かっているのに、紘一郎にはいつだって自信満々で強くいて欲しいのだ。
 今日、仕事に一呼吸を入れて、紘一郎と詠が絵に取り組んでいる部屋に入ると、紘一郎が眠りかけていた。
 詠がにっこりと微笑んで、「毛布かけといた」と言ってくれたときには、ありがとうございますと言えた紘和だったが、正直背筋が寒くなった。 
 紘一郎が眠ったまま、もう目覚めないのかもしれないと思ってしまうのだ。
 ずりさがった毛布をそっと持ち上げる手が微かに震えているのが分かる。
 こういう時だけ全てが溶けて身体と心の中に染み込んでいく。
紘和にとって紘一郎は主人であり伯父で、つまりただの「家族」なのだ、と。
 この気持ちが素直に表れるようになったのはつい最近のことで、なぜか詠が来てからのような気がする。
 紘一郎の本当の意味での家族である詠を目の前にして、なぜそんな感情が表れるようになったのか、紘和には不思議でたまらない。
 たまらず、詠に尋ねてしまう。
「詠さん」
「何?」
「詠さんにとって家族とはなんですか?」
「え? 急にどうしたの? 心理テスト?」
「……そのようなものです」
 下書き用のペールブルーのパステルをキャンバスに走らす手を止めて、詠は目を丸くする。紘和が心理テストなんていうものを仕掛けてくるとは思わなかったのだろう。
「家族って……ばあちゃんと染谷のじいちゃんと父さんと母さんと母さんとこのじいちゃんとばあちゃんと、吉井のじいちゃんと紘和、だろ?」
「随分多いんですね」
「しょうがないだろ、じいちゃんが人より多めにいるんだからさ。そういや家族だけは神様の贈り物だって誰かが言ってたなー。選べないから、できる範囲その中で幸せになりなさいってさ」
 神父でもないのに説教臭いやつだったんだよ、と照れたように笑うので、きっとそれは昔のパトロンの一人の台詞なのだろう。
 こうして、時折詠は紘和の劣等感を抉り出す。
 自分から尋ねたのに、身勝手なものだ、と分かっていても止められない思いだ。
 紘和に感情と表情を教えてくれなかった家族の中で、どう幸せになれば良かったのだと詰め寄りたくもなる。けれど紘和にはできなかった。
 詠は「旦那様の孫」で「レンブラント翁直系の後継者」なのだ。
 決して対等ではない。
「そんな顔しないで欲しい」
 規則正しくゆるやかな呼吸を繰り返しつつ眠る翁を見つめる紘和の横顔に、詠が非難の声をあげた。
「え?」
「俺と紘和、何が違うの。生活環境? 育った環境? 身分? 紘和はいつも俺のこと眩しそうに見る。俺が紘和に触れたい触れたいって思ってるのに、紘和は俺のこと遠い人っていう風に見てるよね。そういうの、嫌だ」
 きゅっとにぎりしめたこぶしの中で、柔らかいパステルが軋んで折れる音がする。
 詠は辛そうな顔をしている。
 辛い時には辛い顔をする。
 そんな簡単なことが紘和には難しい。けれど、詠にはそんな紘和の微妙な表情の違いが読めてしまうようだった。
「紘和は、じーちゃんのこと主人だって言うのに、俺と同じ場所に位置付けてるのに、じーちゃんのことはそういう顔で見るんだ。俺のこと、嫌い?」
「そんなはずが……」
 そういう顔、というのが、どういう顔なのか、紘和には見当もつかない。
 微笑んでいるのか、眉をひそめているのか、紘和には分からない。多分、それ以外の人にも分からないのだろう。
 人の表情を観察し、画布に描き映してきた詠だからこそ、だ。
 そんな観察眼の鋭いらしい詠は、素直な表情で紘和を見つめる。
 けれど、今はそれを問いただしている場面じゃないことぐらいは分かる。「嫌い」と聞かれてしまった。
 嫌いではない。決して。
 けれど、遠い人だとは思ってしまう。何もかもが違いすぎるような気がして。
「ねえ、紘和。俺は知ってるんだよ。紘和を無理にでも抱いてしまえば、俺と紘和は大差ないってことに気付いてもらえるんだってことぐらい」
「無理にでもって……」
「そうだよ。無理にでもだよ。でも、俺は紘和が好きだ。すごくすごく好きだ。前も言ったけど、本当にとても好きだよ。だから、無理になんて絶対に抱けない」
「詠さん」
 詠の手のひらから、ぱらぱらと淡い色の粉がこぼれる。
 握りつぶしたパステルだ。
「とても好きで、とても大事で、どうすればいいのか分からなくなる。俺のこと好きになって、一度でいいから、俺のものになって、ってお願いしそうになる」
 かすれ気味の声をなお絞り出す泣きそうな顔が、眼に焼きつく。
 紘和は瞬間的に、詠のことを深くいとおしいと思った。
 出会ってからはじめての感情に、少し戸惑ってしまう。
「じいちゃんがばあちゃんに一晩だけをお願いした気持ちが、今すごく分かるんだ。大切すぎて、ずっと手のうちに入れて閉じ込めようなんて到底思えないけど、一度だけでいい。愛してほしい」
 真っ直ぐな詠の言葉。
 まっすぐな感情。声。表情。指先。
 全てに引き寄せられそうになってしまう。
 こんな風に求められたことなんて、一度もない。そして、夢見ていた。
 こんな風に求められてみたい、と。
 一歩踏み出しそうになる足もとをじっと見る。
 そのとき、ふいに詠の目線が紘和を外れ、その後ろを見た。
「じーちゃん!!」
 叫ぶ声と同時に、がたん、と重たい音が床の上に響く。
 紘和は、一気に覚めた熱を感じるとともに、氷を放り込まれたような頭が重くて、後ろを振り返ることができなかった。




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