レンブラントの朝 4



 



 何を言われたか分からないほど、紘和は場数を踏んでいないわけではない。
 紘和だって精悍な美貌で知られたレンブラント翁の血縁なのだ。
 英雄色を好むという故事がよほど好きなのか、政治屋や財界人の中にはそんなことを盾にして好色ぶりを隠さない無邪気な人間も多い。
 けれども、今まではどうにでも切り抜けられた。
 一番多くのことを吸収できる時期にレンブラント翁という天才の下にいた紘和自身、話術に長けていないはずもなくそれなりの対応はもちろんできたし、翁も紘和をそういう目で見る人間に対し冷淡な態度をとっていた。そのためか紘和は翁の一番大事な最愛の秘書なのだ、と含みありげに囁かれた時期もある。
 そうして逃れ続けてはきたのだが、詠には逆らえない。
 何しろ自分から「好きにしていい」と契約を持ちかけたのだ。
 床板の上に組み敷かれても、どうすればいいのだろう、と呑気に考えてしまう。
 男に性的な意味合いで抱き締められているという違和感は身を固くさせているけれど、詠の身体から立ち上るどこか馴染み深い匂いが、幼い頃から血族との縁に見放されていた紘和にはどうしても強く拒めない大きな原因になっている。
 戸惑うように見上げると、詠は熱っぽい目で見ていた。
 それは血族を見る目とは明らかに違う。
「紘和」
「はい?」
「なんで嫌がらないの?」
「何故と聞かれましても」
「男と寝るの、もしかして慣れてる?」
「私がゲイもバイでもないと見抜かれたのは詠さんでしたよね」
「でも、俺は……じーちゃんに似てるし……」
 突拍子もないことを言われて紘和は目を丸くした。
 頭の中が真っ白になる。
「旦那様と似てらっしゃると何か……?」
「この間来てたおっさんが、紘和さんは次は詠さんに払い下げですかねとか、言うし」
 言いにくそうに呟く詠を見上げつつ、紘和は心の中にひっそりと作ってあるブラックリストをめくる。
 この間来ていた中で口さがないのは国内鉄鋼業の3位シェアを誇る会社のグループトップだったかもしれない。彼はそれこそ色好みで、紘和はかなり真剣に何度も誘われたが脂ぎったその容貌と軽い口がひどく気に入らず、冷たく拒否した覚えがあった。身の危険を感じるほどではなかったと記憶していたが、本気だったのかとしつこさに呆れる。
 それにしても払い下げとは。
 官営工場ではあるまいし、とそのボキャブラリーの貧困さに思わず笑ってしまいたくなったが、ぽつりと生温かいものが頬に降って来てその笑みを紘和は凍らせてしまった。
 なぜか詠が泣いている。
「紘和が払い下げとか物みたいに言われんの、すげー悔しかった。それにじーちゃんが紘和のこと………抱いてる、とか思ったら」
 あの方は比類ない女好きですので有り得ません、ときっぱりと言おうとしたが、胸と肺は詠の体重に押し潰されて声も出ない。
「ものすごい、嫉妬した」
「え、詠さん……っ」
 みしみしと身体が悲鳴をあげているような気がするほど抱き締められるとさすがに命の危険を感じる。逃れようと肩を押し上げるが、詠は紘和よりも力持ちで体格がいい。かなうはずもない。
 息苦しいのに、やはりなぜか嫌悪感がなかった。それも詠の人柄のせいなのか、紘和自身の感情の変化なのかそれはよく分からない。半ば酸欠状態に陥りながらも、心のどこかが今の状況を素直に受け止めている。
「紘和がじーちゃんのこと好きなのは知ってる。でももしもじーちゃんも紘和のこと好きだったらって思ったらたまらなくなった」
「何を……」
「紘和」
 詠の涙はまだ止まっていない。
 顔を寸分も歪ませず、光に満ちた目からはただきれいな水滴がはらはらと流れ落ちているのだ。こんな泣き方をする人間を紘和は見たことがない。
涙をも武器にするような人間がひしめく世界には、十代のはじめの頃からどっぷり浸かっている。そんな世界ではこんな泣き方をする人間はいない。壊れそうに繊細な、詠の中にあって紘和にはない何かを端的に証明するような涙。
「紘和は、いつも俺を誰と比べるんだよ? 俺を通して誰を見てるんだ?」
「…………詠さん。あなたは旦那様によく似ていらして、そりゃ旦那様と比べてしまう時もありますが」
「あんたが俺を拒まないのはじーちゃんと俺がよく似てて、同じ匂いがするからだ。俺が抱き締めると紘和はぎゅっと身体を縮こませるけど顔はどこかほっとしてる。俺はじーちゃんじゃないのに」
 反論は出来ない。
 紘和には詠を通して紘一郎を見ているといった自覚はなかったが、同じ血縁の匂いがひどく安心するのは事実なのだ。
 それが、紘一郎と重ねてはいないと断言する気持ちを撥ね付ける。
「なぁ、紘和。そんなにじーちゃんのこと愛してる?」
「え」
 はらはらと涙をこぼすその目の力は決して涙で霞んでおらず、じっと見据えられると身体が竦んでしまいそうだ。
「後から来た俺に嫉妬する権利なんかないんだろうけど、でも……」
 ぐいっと涙を拭った詠は、紘和を押し潰すのを止めた。
「でも」
 その言葉は続かない。
日の光を含んで穏やかに温もる床の上に転がっている二人は、互いに何を言えばよいのか見当もつかずに時間を持て余していた。



 微妙な空気になってしまったことを悔やんでいるのはお互い様だったので、詠はいつの間にか紘和の上からどいて隣に寝転んでいた。圧迫はなくなったが、紘和も起き上がる気にはなれない。
 時折ごそごそと動く詠が紘和をひどく気にしていることは分かるけれど、何をすることもできなかった。
 ただ、じんわりと過ぎていく時間を身体のどこかで刻みながら、古い家の天井に渡されたハチミツ色の太い梁を眺めていた。
「あの」
「え?」
「詠さんは私のことを……」
「好きみたいだ」
「それは恋愛ですか?」
「俺は恋愛対象が男しかいなかったから、多分そーだろうなーって思うけど」
「失礼は覚悟していますが、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
 今までぼんやりと考えていたことを言葉にまとめる。
 言いにくいことなのは分かっていたが、詠の真意が紘和には伝わっていなかったのでここで確認する必要があるような気がした。
 流されるわけにはいかない。詠を流すわけにもいかない。
「私は、詠さんを通して旦那様を見ている、かもしれません。あなたはどうやら愛情たっぷりに育てられた人らしい。そんなあなたが、誰かに重ねられて見られていることに違和感をおぼえていないと断言できますか? だからこそ、その視線の主が気になるとは思えませんか?」
「紘和のことを好きだよ」
「ですから」
 上手く伝わらなかったのかと横を向くと、詠の手のひらが紘和の顔の前にかざされた。
 すい、と外されて見えた詠のなんとも言えない顔に驚く。
 その顔でそんな顔をして欲しくない、と叫びそうになる。
 こういった感情こそが二人を重ねている証拠で、詠に嫌な気分を抱かせていると知りつつも仕方のないことだった。
 紘和にとっての詠は紘一郎の望んだ存在であり、今の段階ではそれ以上の何ものでもないのだから。
「聞けって」
「…………はぁ」
「笑った顔とか困った顔とかもっと見たいんだ。紘和はすごく絵になる人間だよ。一つ一つの仕草が絵になる。絵にしたくなる。紘和をいつか描きたいと思う。でも俺の今の力量じゃ全然描けないのも分かってる。だからまだ描かない。でも今の俺でもじーちゃんなら描けるぜ? 俺はじーちゃんも紘和も好きだけど、その違いだよ。そういう風に好きなんだ」
 丁寧に説明してもらって、詠が紘和に何らかの執着を抱いているのは分かってもだから好きだという証明にはならないのではないか、と首を傾げる。
 そんな紘和の手を探り当ててぎゅっと握り締めた詠は、天井を見据えながら言葉を続けた。
「俺はさ、正岡のじーちゃんみたいに写真は撮れない。親父みたいにサラリーマンも出来ない。でも絵は描けたんだ。自分の欲しいものを、見たいものを絵にすることだけは出来た。だから俺はパトロンの絵は描ける。もっと正確に言うと絵に描けた人だけパトロンにしてた。でも紘和は違うだろ?」
 更に強い力で手を握り締められて紘和は反射的に頷いた。
 パトロンというべき存在ならば、紘和よりもむしろ紘一郎になるのだろう。今後詠の下には紘一郎のものが全て転がり込んでくるのだ。だというのに見返りを求めない、今までの中で最大の援助者だ。
「紘和のことを欲しいと思う。でもまだ無理なのも分かってる。だからちょこっと触るだけにしてたんだけどなぁ……さっきはごめんな」
「いえ、そんな」
 恋人の代理にでも、と申し出たのは紘和の方だ。謝られるのは筋ではない。
「抱き締めてもいい?」
 天井を見据えていた目がいつしか紘和を見据えていて、全てを見透かすような力に溢れた目に捕えられて動けなくなる。
 抱き締めていいか、などと聞かれたのも初めてで戸惑う心が随分激しく揺れていたけれど、結局詠に抱き締められることに嫌悪感はないという理性が決定して頷いた。
 安心したようにゆっくりと腕を伸ばして紘和を抱き締める詠の、その匂いに紘和は再び安堵をおぼえた。



 詠は航空機のタグがいくつも残る使い古されたスポーツバッグに洋服を詰め、絵画用のイーゼルや油絵の道具を持ち出すと他はいい、と言った。
 聞いてはいたがあまりにも軽装で物に対する執着の薄さをひしひしと感じ取った。
「絵は描かれるのですね?」
「ああ、じーちゃん描いとこうと思って」
 キャンバスも持ってくかぁ……と詠は押し入れの中を漁りだした。
 もう布が張ってあった40号のキャンバスを引っ張り出して、紘和に真っ白なその面を見せつける。
「でかすぎるかな?」
「いえ」
 きっとレンブラント翁は喜ぶだろう。
 最愛の女性の残した孫が、最愛の女性に似せたサスキアを描いた筆で自分を描く。きっと一対の絵に見えるように注文するに違いない。
 そうなった時の彼の笑顔を思い浮かべると、紘和も満足な気持ちになる。
「必ずお喜びになると思います」
「紘和も喜ぶ?」
「私ですか?」
 詠の目は真剣だ。
「そうですね……喜ぶ、といいますか。旦那様が喜ばれることでしたら私は大概嬉しいですが」
「紘和が俺に言ったこと、間違いじゃないかもしれない。俺は今までずっと俺自身を皆に愛してもらったっていう自信があるし。だったら俺も何かして紘和に俺自身を見てもらえるようにしたいんだ。だから絵を描くよ」
 詠がキャンバスの縁を指先にひっかけて、担いで笑う。
「紘和のために」






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