レンブラントの朝 3



 





 お披露目は順調だった。
 各界から有名人が揃うような派手なお披露目を嫌う詠の意向で、屋敷に訪ねてきた人間に順番に挨拶をするという方式をとった。そちらのほうが肩肘も張らないし、一人一人をきちんと見られる、いう意見には翁も紘和も賛成した。
屋敷に来た人間は、まず翁と詠のよくにていることに驚く。
そして、詠の話術。それはヨーロッパのそうそうたるメンツをパトロンにしていただけあって、素晴らしいものだった。最初は半信半疑の訪問者も、話すうちに詠に惹かれてゆく。帰る頃には、素晴らしい後継者が見つかったものだ、と心の底からの賞賛を送るようになるのだ。
 その変わり身の速さには、表面だけの追従など日常的に見慣れているはずの紘和でさえ鮮やかに思えた。
「しかし今日はさすがに驚いたな。あの八島があれほど人を褒めるところなど見たこともない」
「八島様は西洋美術がお好きでいらっしゃいますから、詠様とお話が合われたのでしょうね」
 八島は旧財閥系列の建設グループの会長である男だ。
家柄も学歴も仕事の腕もいい、身分もキャリアもプライドも相当高い男で、彼を納得させるのは手間取るかもしれないと思っていた。しかし詠は八島にするりと近づいてしまった。
 これにはさすがの翁も驚きを隠せないのだろう。
「絵の話はさすがに楽しいよ。ああいう詳しい人と話すのはもっと楽しい」
 目つきが鋭く近寄り難い雰囲気を持つ八島との会話を楽しめる詠は、ものすごい大物なのかもしれない。
「紘和はどんなものが好き?」
 くるりと紘和に向き直った詠が、覗き込むようにして伺う。
 まさか自分の好みを問われるとは思わなかったので、紘和は戸惑った。
「私、ですか?」
 戸惑うのも無理はない。
 好みだとかそんなものを考えて生きてきたことはないのだ。
 必要なものと必要のないもの。
何かを選ぶ時に決める基準はそれが全てだった。紘和のクローゼットが全てを語っている。スーツは必要なもの、それ以外の服は必要のないもの。
「考えたこともありません」
 困ったような微笑みを返すのが精一杯の答えだった。
「マジで言ってんの? ……じゃあ考えといてよ。どんなのが好きか」
「はい」
「絶対ね」
「はあ」
 あまりに強く念を押されたので、紘和はとぼけた返事になってしまう。 
「ねえじーちゃん。紘和ってどんな子だった?」
「今と変わらんよ。身の回りの世話をする者もないのに、きちんとアイロンがけされたシャツを着て、制服のズボンはプレスされてきっちりしていた」
「そっか。さすが」
「詠は紘和が好きかな?」
「うん」
「そうか」
 居たたまれない。
 本人の目の前でこんな会話をしないでほしい、と紘和は思わずあとずさってしまう。
 自分の昔を話されるのは、苦手なのだ。
 紘和は決して恵まれた子供ではない。
 母親は紘和を産んですぐに亡くなった。紘一郎の甥にあたる父親は、悪い人間ではないが自由気ままな人間で、今どこで何をしているか、紘和だって知らない。消息不明の失踪者なんて、生きていないのと一緒だ。13の歳で祖父が他界してすぐこの家に引き取られたが、好きなものと嫌いなものなど、我がままを言える子供ではすでになかった。
 そういうことを考えながら詠を見ると、自分の子供時代が不幸に思えてしまう。
 自分を不幸な人間だと思いたいわけがない。
 紘一郎と詠の会話の輪から少し離れて、紘和は小さなためいきをついた。


 のんびりと日が過ぎて、気がつくとだいたいの人間にお披露目が終わってしまった。残っているのは、現在通常国会の会期中のために「ご機嫌伺い」を控えている国会議員や大臣達だけで、150日間の会期を終えればすぐにでもここにやってくるのだろう。来年の衆議院総選挙に向けて暗に何か仕掛けてくる輩もいるだろうことは容易に想像がつく。
それはそれで面倒だがそれまではのんびり過ごせそうだと思ったので、紘和は詠に本格的な引越しを勧めた。
「詠様、お荷物はこちらの手配した引越し業者に運ばせますので、よろしいでしょうか」
 詠は居間の気にいったソファでよく昼寝をしている。あまりに気持ちがいいからだろうか、よくよだれを垂らしメイド頭に怒られている。今日も同じソファで横たわっていたのだが、よだれを垂らす寸前に起こせたことを紘和は少し安心していた。
「んぁ? 引越し? 引越し業者?」
「はい」
 まだ寝ぼけているらしい。
 あくびを繰り返して何度も目を擦る詠は、髪をぐしゃぐしゃとかき回してから頭をふった。
「ええーと、いいよ引越し業者なんて頼まないで。大した荷物はないし」
「しかし」
「いいって。あ、ねえ紘和は暇?」
「はい? ええ、そうですね。今日は時間がございますが」
「だったら紘和が運転してよ。必要なもんだけカバンに詰め込むから」
「必要ないものは処分なさるんですか?」
「処分? なんで? 俺あの家引き払う気ないよ」
「はい?」
「アトリエとして残しとくよ。俺は根無し草だからさ、多分またふらふらする。この家だけに住み着くっつーことはありえないし。一応あの家も貰った家だから」
 また貰い物らしい。
 聞けば、日本に正岡の家のものはほとんどもうないのだと言う。
 ドイツに両親が転勤になったときに全てを処分してしまったのだそうだ。だから紘一郎の思い出の残る「正岡写真館」ももう人手に渡っているということだった。
 詠が住んでいるのは美大時代にお世話になった出資者からもらった家らしく、小さいながらも気に入っている空間らしかった。
 そんな風にあちらこちらに居場所のある詠が、ここにしか居場所のない紘和にとってやけに羨ましく思える。
 全く、知れば知るほど対極にいる人間なのだ。
「ま、行こう」
「はい。どの程度の荷物になのか計りかねるのですが、どのくらいなのでしょうか」
「んー……。海外旅行用のトランク2つぐらい?」
「はい」
 だったら紘和の私用車でも充分だと胸をなでおろす。
「俺が運転したいな」
「運転ですか? 免許はお持ちですか?」
「持ってるよ。更新してないけど」
「…………講習会に行ってくださったらお車を差し上げますので」
 今は勘弁して欲しい、と言外に含ませた。


 
 詠のアトリエ兼居留地は吉井の邸宅から車で1時間ほどのところにあった。
 きれいとは言い難い川沿いに立つ一軒家で隣は駐車場だった。住宅街のぽつんと開けた一角にある小さな家。古くて何もないよ、という詠の言葉通り、今時珍しい真鍮の鍵を差し込んで開けられた扉の向こうにはがらんとした空間が広がっていた。
「でしょ?」
「はあ」
 何もない、と思えるのは家具がほとんどないせいだ。 
 床には毛布とパレットが置かれて、無造作にたたまれたイーゼルがその上に放り出してある。壁沿いに何枚かのキャンバスが立てかけられていて、キッチンには古ぼけたやかんが見える。
「詠様……」
「敬語はもうちょい我慢するから、詠様はやめて」
「詠……さん」
「はい」
 にこりと笑って詠は紘和の頬にキスをした。
 頬にキスをするのは詠にとってごく自然なことらしく、一日に何度かやられるのだが紘和は何度されても身体が強張る。生理的嫌悪とかそんなものではない何かが紘和の中にあって、それが詠をどうしても素直に受け入れてくれないらしい。
「どこで寝てらしたのですか?」
「毛布に包まると結構暖かいから、床」
「お身体に障りますよ」
「誰も気にしないって。芸術家の人生は短いものと相場が決まってるし」
「そんな問題では……」
 言い切る前にぎゅっと抱き締められて再び身体が強張る。
 キスのときと違ってその強張りが直に詠に伝わってしまうのが申し訳ないので、紘和は抱擁が苦手だった。
「紘和は優しいね」
「え?」
「……心配してくれるんでしょ?」
 頬を擦りあわせるようにして近づいてくる詠の唇が耳たぶに触れて、心地よいトーンの声が直接耳を震わせる。その感覚に身体を揺らして紘和は更に身を固くした。
「心配ぐらい致します。使用人ですから」
「使用人」
 詠は紘和の顔を覗き込んでなんとも言えない顔をする。
「紘和をただの使用人だと思っている人間があの家に一体何人いると思ってるの? 少なくともあそこではさ、誰もそんなことを思ってはいないって言い切る自信があるよ。紘和はじーちゃんと俺の身内だって、みんな思ってるよ」
「ありがとうございます」
 返す言葉が形式的なものなので、詠にはそれもまたもどかしい。
「なんで、じーちゃんは孫探しにこだわるのかな」
「お会いしたかったのでしょう……」
「紘和でいいじゃん。じーちゃんは紘和のことあんなに頼りにしてるし、孫なんか無理矢理探し出さなくても紘和を後継者にしちゃえばいいのに」
「そういうわけにもいかないでしょう」
 紘和の困った顔を覗き込んで、詠は抱き締める力を強くする。何とも言えずに、紘和はそのまま黙っていた。
 しばらくして、外の生活の音が気になりだす。
 赤ん坊の泣く声、車の走る音、自転車のブレーキ。
 日常的な生活の音の中で、今の体勢が少し非日常に思えて、照れ臭くなってしまう。
「詠さん。あの、そろそろ離していただけませんか……」
「あ、うん……紘和、ほっぺた赤いもんね」
「そういうことは思われても口にされないでいただきたいんですが」
「紘和はさ、自分がどんなに魅力的な顔をしてるか知らないんだよね。そんな顔をされちゃうと妙な欲望に火が点く」
「妙な欲望とか、おっしゃらないでください」
「ああ、うん」
 わかった、と舌足らずに告げた詠が力を緩める。
 明らかに紘和はほっとした顔になる。
「あーその顔」
「え?」
「そんな顔、しないで」
詠は腕に力をこめて、再び素早く紘和を抱き込んだ。
「紘和」
「はい?」
「しよ」
「…………え?」





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