レンブラントの朝 2



 


 レンブラント翁――吉井紘一郎は、説明を求めるようにしてゆっくりと紘和を見た。
 しかし紘和にも何も言えない。
 何も知らないのは翁も紘和も同じだ。
 顔はよく似ていると思ってはいたが、孫候補として連れてきたわけではないのだから。
部屋の中の空気が、訝しげなものと喜ばしげなものとが入り交ざって、不思議な色に染め上げられる。
「じーちゃんだろ? ばーちゃんが言った通り、俺にそっくりだなあ」
 今の二人の空気を構いもせず屈託のない笑顔を振りまく詠に、翁が咳払いをして問い掛けた。
「君のおばあさんの名前を教えていただきたい」
「あ、ええと染谷晴子、です。蒲田にある染谷写真館の」
「晴子、の……」
 言葉を詰まらせた翁の目が、ふいに潤んだ。
それに気がついた紘和は慌ててハンカチを手渡したが、疑問が頭をもたげる。
今まで「孫候補リスト」に入っていた妾妻達の名前の中に染谷晴子などという名前はなかったような気がした。記憶力のいい紘和のことだ、2ケタそこそこしかいないレンブラント翁の愛人の名前ぐらい全員叩き込んだはずだった。
「旦那様、染谷晴子様とはどのようなご関係で?」
 冷静さを取り繕って尋ねる。この様子だと、詠は翁を祖父だと疑っていないようだし、驚いたことに一目で翁自身も詠を孫と認めているようだった。
こんな簡単な孫の選定は今までにない。
「一夜の関係だ。だから、愛人リストにはいれとらん」
「何をロマンチストなことをおっしゃっているんですか! 一夜は一夜でも関係があったんじゃないですか!」
 孫を探せとあれほど息巻いておいて下手な感傷で邪魔するなど、なんてなんて面倒な人なんだ、と叫びそうになる。
珍しく声を荒げた紘和に驚いたのか、少しだけ翁が動揺しているのも珍しい。
「そんな無体なことを言うな、紘和。だいたい彼女は人妻だったのだぞ」
「人妻。人妻にまで手をお出しになったんですか? 英雄色を好むとはよく言ったものですが、伯父上は節操なさ過ぎますよ!」
 高ぶるとついつい「伯父上」と言ってしまう。
翁は嬉しいようだが、紘和にとっては失言に他ならない。
慌てて口を噤むと、詠が興味深そうに紘和を覗き込んだ。翁にそっくりな光溢れるきれいな目。微かに胸が高鳴ってしまうのは仕方のないことだ。この目に、紘和は憧れて止まない。
「紘和さんにとってじーちゃんは伯父さんだったのか。てことは、俺と紘和さんはイトコ? ハトコ?」
 祖父同士が兄弟だからハトコの方だな、と翁は嬉しそうに呑気な詠に告げた。
「ところでじーちゃん、人妻だったばーちゃんとどうやって知り合ったんだよ?」
「……そうですね。それは私も気になります」
 二人に詰め寄られて、翁は苦笑いを浮かべて眼鏡を机の上に置いた。
長い話をする時のクセなのだ。
「昭和のはじめだったな。銀座を歩いている時に、わしが晴子を道で見初めた。周りに調べさせて蒲田にある写真館の嫁だと聞いて落胆したが、どうしても諦めきれずに写真館に足を運んだ。晴子の夫は優しくて腕のいい写真屋で、気のいいやつだった。わしは晴子を美しい娘だと愛しく思うと同時に、晴子の夫である染谷も好きになった。だから、一度は諦めたのだ。……新婚の二人は仲も良かったからな。だが運命とはひどいもので、戦争で染谷は死に、わしは生き残った。晴子をなぐさめにとんで行ったわしは、悲しむ晴子に情けを頼み込んで、一晩だけの妻になってもらった」
愛人を両手でも足りないほど作っておきながらの翁の純愛物語に何だかほだされてしまいそうな気がして、紘和は気を引き締める。
ほだされてしまったら、今まであれだけ厳しい審査をして孫を選定してきたのに、詠だけ特別扱いをしてしまいそうだからだ。
「本当に一度だけ、思いを遂げさせてもらった。我がままなのは重々承知していたが、崩れ落ちそうな晴子をこの世にどうしてもつなぎとめておきたかったのだ。いつしか、それほど愛していた。そのあとは友人の妻として保護するつもりだった。大切な晴子を愛人の扱いにする気などまるでなかった。けれど、次の日には晴子はどこかへ消えていたんだ……。まさか、あの時子供が出来ていたとは思いもよらなかった。探せなかったのだ、詠。晴子が大切であればあるほど、探すのは恐かった」
 歳をとっても良く通る声で、普段はどこぞの県知事やどこぞの社長を叱り飛ばしている紘一郎の、語尾が震える。
「じーちゃん、あのさ、ばーちゃんはじーちゃんの写真を大事にとってたよ。俺、いつも持ち歩いてるんだ。親父が焼き増ししてくれたから」
 そう言ってジーンズの後ろポケットから詠は財布を取り出し、その中からモノクロの写真を取り出した。
 その作業にあわせるように、翁も机の引出しから大事そうに紅のビロードに包まれたお見合い写真のようなものを取り出す。
「染谷の写真館で撮ってもらった写真だろうか……。それならばこれだが」
 二人が突きあわせて見せたのは、サイズの違う同じ写真だった。
 若き日の、詠にそっくりなレンブラント翁。
 写真撮影用の椅子に軽く手を置いて、背筋をぴんと伸ばして立っている。
「やはり、詠。お前はわしの孫だな。決定だ」
 決定。
 その言葉の重みに紘和はおののいた。
しかしその重みを知らない者にとっては大した言葉ではない。現に詠は、うん、と小さく頷くだけだった。
「顔同じだしね。親父が生きてたら、父親に会えたのにな」
「詠様のお父上は?」
「死んだよ。おふくろは今ドイツに住んでるけど。じーちゃんの息子はばーちゃんと一緒に交通事故でね」
 どかーん、とこぶしとこぶしを軽くぶつけて詠がほほえむ。眼が少し寂しそうなのが気になるが、それが彼が家族に愛されて育ったしるしなのだろうと思うとかすかに羨ましくなる。
「交通事故、だったのか? 晴子……」
「じーちゃん、俺の親父の名前は紘太っていうんだ。染谷のじーちゃんとは似ても似つかない名前だから不思議に思ってたんだけど、それもそうなんだよな」
 感慨深げに詠は言う。
「紘和」
翁の声が感極まっている。
「はい」
「もう孫など探すな。詠だけで充分だ」
 人を疑うことが彼の今までの人生のほぼ全てを満たしていた。
しかし、最愛の女性の孫が現れた今、彼は詠を疑うことなどないのだろう。
 これでいい、と紘和は思う。
 実際今まで、紘和にとって孫などどうでもよかったのだ。
 歳をとった翁がなぜ娘や息子ではなく孫を欲しがったのか。理由はおよそ分かる。晩年を、孤独に過ごしたくなかっただけなのだ。生きていてもとうの立っているはずの子供よりも、まだ可愛げのある二十代ぐらいだろう若い孫。そんな存在に見守られて最期を遂げたいのだろう。
 レンブラント翁。
 超大作「夜警」を境に落ちぶれていった彼になぞらえたその名に、なぜ紘一郎が甘んじているのか紘和には分からない。それでも、紘一郎は否定せずにいる。だからといって決して気にいっているわけでもないのだ。
「詠、今日は泊まって行け」
「うん。でも俺、このジーンズに絵の具つきっ放しなんだけど」
「私の服でよろしければお貸ししますが」
「そうだ、軽くシャワーでも浴びて紘和の服を着ればいい。そしてわしに晴子の話と紘太の話をしてくれないか?」
 にっこり笑ったのを承諾と受け取り、紘和は詠を自室へと誘う。




 詠は紘和の服を見て驚いていた。
 驚くだろうとは思っていたが、クローゼットの前で固まられても困るな、と苦笑するしかない。
「なあ、紘和さん……あんたいくつだ?」
「私は28ですが」
「だよね。25の俺と大してかわんないはずだよね……なのになんで、スーツしか持ってないの?」
「必要がないからです」
「家でもスーツなの」
「ここを私の家と呼ばせて頂けるのであれば、その通りですと申し上げます」
 紘和はスーツの他にはパジャマしか持っていない。
 なぜなら、吉井紘一郎の秘書をやっている身分で吉井邸に住まわせてもらっているのだから、眠る時以外は仕事だと思っているからだ。
 それ以外の服を着るときなどない。
「デートとかもスーツ?」
「デートですか……大学を卒業させていただいてから、一度もしておりませんねそういえば」
「あ、そう……。じゃ、休みの日もスーツ?」
「休みなど特にございません」
「……サイボーグか」
 詠は渋々といった風に、紘和のクローゼットから黒のスラックスを取り出した。それから更に嫌々の様子で濃い紺色のシャツを取る。
「それでよろしいですか?」
「うん。28でこんなんしかないのか。寂しいな、紘和さん」
「寂しくなんてないですよ」
 無理難題を押し付ける主人に仕えていれば、とは心の中に留めておく。
このあと、詠と翁は他愛もない昔話めいたものに花を咲かせるのであろう。その間にも紘和には急いでしなければいけないことが山程あるのだ。
「シャワーは?」
「この部屋にもありますが、ここのをお使いになりますか? それとも大浴場を?」
「なんだよ大浴場って。俺は庶民だから狭い風呂のが落ち着く。ここの部屋に付いてる風呂って大浴場ほど広くないだろ?」
 一般的なシャワールームというには広い規模だが、大浴場よりは確かに狭い。
 そう思ったので紘和は笑顔で頷いた。
自分が大富豪の孫だと理解した詠の態度が、急変しなかったことが嬉しかったのかもしれない。
 安心したようにシャワールームに向かう詠の背中を見ながら、本当に今まで見てきた「孫候補」とは違うな、と気付く。
 大抵の孫候補は、この屋敷を見て財産の計算を頭の中で始めたかのような欲深い顔をするものだった。欲深い人間が連れてくる子供ばかりだったからなのだろうか。
紘和の目にはどうしても、皆一様に醜悪に映っていた。
 詠と翁の、再会の様子に演技の匂いは感じ取れなかった。
今までの孫候補のような芝居くさい感動シーンではなかったからだ。そういった態度から見て、詠の素性調査をする気はもうない。翁が孫と決めた。それが全てだ。
だが、素行調査はしなければならない。
それが、レンブラント翁の筆頭秘書である紘和の役目なのだから。



 
 詠が居つくようになって1週間が過ぎた。
 彼は人懐こく、使用人たちともすぐ仲良くなった。
今も庭で近所の造園業の主人と楽しそうに庭木の剪定をしている。自分の仕事にプライドを持っている造園業社が、素人に手伝わせるなんて珍しいことである。しかし、それが許されてしまうのが詠の人間性なのだ。改めて「あのレンブラント翁の直系の孫」という事実を突きつけられた気がした。
 そんな風景とともに素行調査の分厚いファイルを見て、紘和はため息をつく。
「……どうしたものか……」
 彼の人生は紘和のものよりも数倍華やかで、今まで彼に関わってきた人間でパーティーでも開けばどれだけ豪華なものになるか分からないほどだ。
彼の今までのパトロンの中には海外でも指折りの素封家も多かった。
それは、吉井紘一郎の孫としてプラスになる人間関係を、彼は自然に作っていたことになる。
「経歴自体、特に大きな問題はない」
 問題があるのは性癖だった。
 パトロンのリストを見る限り別段疑問も持たなかったのだが、今までの恋愛遍歴を見て目眩がした。この性癖を知られることはプラスにはならない。
「バイセクシャルならばまだしも…」
 彼の恋愛相手は、ことごとく男性のようだった。
 男性同士の恋愛自体は珍しいことではない。
裏社会に身体の半分をどっぷり浸かる羽目になった紘和は、そういう性癖の大物財界人に出会ったこともあるし、何が楽しいのか紘和自身誘われたこともある。しかし彼らは女も抱けた。
古風なものを好む風潮がどこかにあって、「衆道は男のたしなみ」などと、時代錯誤も甚だしいことを口にする人間だって少なくはない。
だからこそ、男との行為は「お遊び」と片付けられ、暗黙の了解を得ているのだ。
「しかし、ゲイ、とは」
 頭が痛い。
 重たいため息とともに頭を抱え込むと、部屋の扉がノックされた。
「…………はい」
「紘和?」
「ああ、どうぞ。お入りください」
 扉が開かれ、明るい笑顔が覗いた。
詠は頭の上に松葉をつけたままへらへらと紘和に近寄る。無意識の行動で詠の頭の松葉を取り除いてやると、詠は困ったような笑顔に変わった。
「どうかなされましたか?」
「いーや。あのさ、紘和は俺の素行調査してんだろ?」
「ええ」
 隠すようなことではない。当然だと詠も分かっているのだろう。
「あなたのパトロンは素晴らしい方ばかりですね。イギリスでは有名通信社の社長、フランスでは大手民間銀行の頭取、スペインでは……」
「そう。みんな男」
「パトロンとは、日本で使う下世話な意味で言ったわけではありません。男性の資産家の方が絶対数として多いでしょう?」
「金だけのパトロンもいたけどさ、俺みたいな貧乏絵描きは大抵身体の方も買われてたんだよ」
 そこまではっきり言われると、紘和にも何を言えばいいのか分からなくなってしまった。困ったように視線を泳がせると、同じように詠も困っているようだった。苦笑気味に紘和を見つめている。
「俺、男じゃないと駄目な人だよ。いわゆる」
「ゲイ、ですね。これから少々失礼な質問をさせていただいても構いませんか?」
「うん?」
「いつもどうやって恋人を見つけていらっしゃいましたか? ここにはその経緯までは記されておりませんので」
 と、黒革のファイルを軽く叩いた。
「普段の生活ではあんまり見つからないから、それ相応の場所で」
「そうですか……やはり。あの、お願いがあります」
「紘和が? 俺に?」
 頓狂な声をあげて詠が目を丸くする。
「はい。……しばらく、そういった場所に近づかないでいただきたいのです。紘一郎様がお元気でいらっしゃる間だけで構いません。お願いします」
「……じーちゃんが、ってなんで?」
「旦那様はあなたにずっとお会いしたかったんですよ。そのあなたが吉井の孫として世間に公表される。そこでそういう性癖を持つことが軽いスキャンダルにもなります。あなたがスキャンダルにさらされることを旦那様決して望まない。……もう長くはないのです。旦那様は」
 最後の言葉は言いたくなかった。
 翁の80近い身体は、長年の激務のせいでもうぼろぼろなのだ。
本人も良く分かっているのだろうが、紘和は認めたくなかった。
両親が死んで、祖父が死んだ。紘一郎だけが紘和のよすがだったのだ。その彼がもうすぐいなくなることを認めるなんて、辛すぎて仕方がない。
「その後でしたら、好きなだけ……。ですから、お願いです」
「紘和」
「その間、私を代わりにして下さって結構ですから」
 紘和はゲイでもバイでもない。
ヘテロセクシャルではあったが、過去に言い寄られた実績からして、ゲイのお相手として不足はないのだろうと踏んでいた。
「何言ってんの? 紘和、ゲイじゃないでしょ?」
「はい」
「じゃ、無理だよって言っても……じーちゃんのためか……」
 詠の目が伏せられる。
何か考え込む時の紘一郎と仕草も素振りも全て同じで、紘和は紘一郎に考え込ませたような罪悪感に囚われた。
「分かった。誰かが欲しくなったら紘和を呼ぶよ。だけど、俺も一つお願いがある」
「はい」
「俺のこと、少しは好きになる努力してくれよ。身体だけの関係なんて嫌だ。俺、パトロンだった人たちのこと、ちゃんと好きだったよ。だから身体だけで結ばれる関係なんて結んだことない。だから頼む」
 頭を下げられてしまったので紘和は慌てた。
「努力させていただきます。ですからあの、頭をあげてください」
 詠の肩に手をかけた。すると頭を下げた状態で、詠が紘和の腰を抱き寄せる。
 いきなりの行動に思わず身体が強張ったが、紘和は頭の中で努力努力と念仏のように呟いて身体を無理矢理楽にする。
紘和よりも背の高い詠の身体にふわりと抱きとめられ、誰かとこんなに密着するのは久しぶりだ、と少し経つにつれて不思議と和んでしまった。
 詠の体臭はなぜか落ち着く。
数少ない、同じ血が流れている相手だという理由なのかもしれない。
「通常業務の時は敬語でいいけど、恋人の時は敬語止めろよな?」
 恋人の役目も仕事のうちだ、と紘和は思うがそれを口に出すのははばかられる。
そこまで冷血漢になれる自信はない。
「…………努力します」
 最大限の譲歩を慎重に口にした。





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