レンブラントの朝 1



 レンブラント。
 オランダを代表する、光と影の画家。精緻な筆致とともに、彼の描く空気や明かり、物体の質感は今も世界中の人々に愛されている。
 彼の人生はその作風を反映していた。
 光り輝くような、壮年期。
 孤独な、晩年期。

 現在、日本には「レンブラント翁」とその筋に呼ばれている政財界の大物がいた。
 本当の大物中の大物の名前というのは暗黙の秘密という形でメディアや一般に露出することのないもので、彼の名前は一般大衆に有名ではなかった。しかし、知る人ぞ知る彼の権力は絶大で、この国は今この「レンブラント翁」によって動かされていると言っても過言ではない。
 そのレンブラント翁こそが、紘和の主人だった。
「紘和」
「はい?」
 最近のレンブラント翁は自室の椅子に沈み込んで、壁にあるレンブラントの「サスキアの横顔」の模写を眺めるのが日課になっている。
「わしの、孫が見つかったらしい」
「またですか?」
 いい加減うんざりだ、と紘和は心の中でぼやいた。
 レンブラント翁が入院したのは去年の年末。
それ以来めっきり体調を崩しているのは周知の事実で、以降、後継者の話題が彼の周辺では尽きない。
正妻との間に子供のいなかった彼の、非公式な妻である妾妻の産んだ子供もいないはずだった。しかし、それを探り出してあちらこちらから孫と思われる人間をかき集めてくる人間は後を絶たない。その「孫の疑い」のDNA鑑定や素性調査に最近の紘和は追われている。それをレンブラント翁自身もよく知っているので、一人づつ候補が消えるたびに紘和に謝るのだ。
 孤独な晩年。
 それでも彼は、遊びすぎた若い頃のツケだ、と軽やかに自嘲する。紘和も困ったようにほほえむしかない。
「今度の方はどなたがお連れなんです?」
 孫を連れてくるのは、与党の大物、外資系大会社のCEO、大手地銀の頭取などなかなかバラエティーに富んだ面々だ。
「……それが妙なのだ」
「どういうことですか」
「孫がな、後継者と称する輩を連れずに来ているらしい」
「へえ……単身で、ですか?」
「単身だ」
「……来ているらしい、ってどういうことですか」
 今日の自分は問いかけばかりだということに紘和も気付く。
「下の、居間におる」
「謁見なさったんですか?」
「いや……」
 珍しく歯切れの悪い政財界の大物は、己の豊かな白い髭に顔を埋めるようにしてため息をついた。
「悪いがお前が見てきてくれんか? わしはもう嫌だ……かつて愛した女たちの面影をどこかに残した偽物を連れてこられて、今度こそ同情しないとは限らん」
 紘和がこの翁のこうした弱いところを見たのは初めてではない。
 他の誰にも見せない弱みを、彼は惜しげもなく紘和にはさらす。
それは、紘和だけが彼に認められた「身内」だからでもあった。
「旦那様、私の見立てでよろしいのですね?」
 しかしその唯一の身内である紘和は、もうとっくの昔に他界した祖父の兄である彼を旦那様と呼ぶ。
「頼む。お前しか、信じられん」
 心を預ける人間が回りにほとんど見当たらないのは、華やかな人生の代償。
 それをこの老人はよく知っていた。




 孫探しほど、紘和の気の乗らない仕事もない。
 調査中に紘和は謂れのない敵意にさらされるのだ。
本物なのに自分が後釜に座りたいから嘘をついているのだろう、などという言葉は可愛いほうだ。
 後釜になど、座りたくない。
 日本の経済界を操りたいとか、手中にしたいとか、思ったことなど一度もない。
 何度心の中でそう叫んだことだろう。
「失礼します」
 感情を押し殺して、一階にある居間に足を踏み入れる。
 産毛のような毛羽がなめらかな、織りの精緻な極上のペルシャ絨毯の上には、北欧スウェーデンで作られた最高級の家具が飴色の光沢を放つ。暖炉の上にはアンティーククロックのコレクション。そして壁にはまた、レンブラントの模写。居間に置かれているのは号も大きく迫力もある、「夜警」だ。
 吉井紘一郎がレンブラント翁と呼ばれるのには、2つの理由がある。本人の歩んだ人生になぞらえたのは後付けのあだ名の理由なのだ。最初は、彼がレンブラントの模写をこよなく愛するからにすぎなかった。
 本物でも買えるほどの資産を持っていながら、彼はなぜか模写を愛する。
 その「夜警」をじっと見つめているのは、見知らぬ青年だった。
 服装はワインレッドのパーカーにジーンズ。その辺をぶらつく若者と変わりない。しかし、紘和が目を奪われたのは彼の横顔だった。
 鼻の形、唇の厚さ、あごの尖り具合。どれもがレンブラント翁に生き写しだった。
非常に特徴のある美しい顔をしているレンブラント翁は、歳をとってもその人を魅了する容貌が衰えないことで有名だった。今までの孫達は、翁が以前愛した女たちにどこか似ていても翁自身に似ていたことはなかった。だが、彼は。
「あの」
 思わず声をかける。翁にそっくりなその横顔、では正面はどうなのだ、とどうしても見たくなったからだ。
「え? ああ、どーも、こんにちは」
 砕けた口調の彼は、正面から見ても翁によく似ている。
強いて言うならば、翁よりも多少男性的であるだろうか。そこに立って微笑むだけで人を魅了できるのは間違いない。
「……はじめまして、私は吉井紘一郎の秘書をしております、吉井紘和と申します」
「あ、俺は正岡詠。よろしく」
 にこにこと手を差し出す詠の右手を軽く握って、紘和はソファへと促す。すると、詠は困ったように笑って拒否した。
「このジーンズのケツにまだ乾いてない絵の具がついてるんですよ。ジーンズ自体インディゴだし、絵の具もインディゴだから目立たねーけど。そんな高級そうなソファには座れないです」
「……そうですか」
 仕方ないので、メイドに頼んで足の高めの円卓を持ってこさせた。そこに紅茶を用意する。
くゆる白い湯気の香りをすっと吸い込んだあと、詠はふいに懐かしそうに笑った。
「これって、キーマンだよね」
「はい。よくご存知ですね」
 詠のような一見普通の青年が紅茶の銘柄に詳しいのはなかなかに珍しい。 
 少しだけ、普段の警戒心をとりもどしてしまう。
「イギリスにいたときのパトロンが紅茶の店やっててさ、色んな紅茶教えてくれたから」
「パトロン……?」
「俺、画家志望なんです。適当にバイトして金貯めたら他所の国行って、気付くと金持ちのパトロンがついてるから、結局1、2年ぐらいあっちに行ってることが多いんだ」
「はあ」
「イギリスとかフランスとかドイツとかデンマークとかオランダとか。色んな国に行って、色んな人に優しくしてもらえると、びっくりするぐらい鋭い感覚で絵が描けるんです。優しいことにも、嫌なことにも、嬉しいことにも、泣きそうなことにも敏感になる。常に高いところに感情が持っていかれる。そういうのが好きで、いつもふらふらしてるんですけどね」
「どこの国が、今一番あなたに影響を与えているんです?」
「どこの国も一番だよ。自由をくれた国の人もいれば、優しさで包んでくれた国の人もいる。俺に五感のすごさを教えてくれた国の人もいるし、どこにいっても同じものをくれる人なんていないよ」
「そうなんですか」
 紅茶のカップを軽く傾けて喉を潤しつつ、紘和は今までの自分の環境とはまるっきり違う詠の話を妙に真剣に聞いてしまう。
 彼の話にはよどみがない。
 とても楽しそうにしゃべるから、というのも一因なのだろうけれど、それだけではない何かがある。心の底からそう思っているから、彼はまっすぐに話せる。
 うらやましい、と紘和は珍しく正直に思ってしまう。
「そうそう、そういえばこの絵」
 詠は壁の「夜警」を指差した。
「ああ、模写ですよ。その気になれば本物も買えるのでしょうが、旦那様はレンブラントの模写がお好きで」
「知ってる。だってこれ描いたの俺だよ」
「は?」
 思わず間抜けな声をあげて詠を見ると、楽しそうに笑った。
悪戯が成功した時の子供の顔だ。
「模写に偽物のサインをいれないと贋作になるから、模写のサインはいれてある。ほら、ここ」
 示されたところに目を凝らすと、確かにレンブラントの深い色使いに更に深く沈み込む、クリムゾンレーキで「A」と控えめなサインが入っていた。
「レンブラントの模写を欲しがる変な金持ちのじいさんがいる、って聞いて描いてみた。レンブラントの色使いはすごく勉強になるし、俺はあまり模写が得意じゃないけど、買ってもらえるならちょっと絵の具を多めに使ってもいいかな、って気になったし。そしたらやっぱし買ってもらえたって聞いたから、画商に頼み込んでここのこと教えてもらったんだよ。そしたら予想以上に立派な家なんだもんなぁ。本当にびっくりだ」
「ああ、そうだったんですか」
「本人が出てくるんじゃなくて、秘書の人が出てくるってところも本物の金持ちって感じだよなぁ」
「ええ……ええと、吉井にお会いになります?」
「いいよ、別に。この絵がどんな人に買われてどんなところに飾られてて、どんな風に扱われてるかってのが分かればよかったんだ、俺」
「……あの、目的はそれだけなんですか?」
 孫候補だ、と聞いていたのだが。
 レンブラント翁に仕えるようになってからはあまり動揺を表に出さないようになっていた紘和だったが、今日ばかりはそういわけにもいかない。
 面食らうことばかりが襲ってくる。
 彼が次に何を出してくるのか、全く予想がつかないのだ。言葉遣いもついついしどろもどろになってしまう。
 詠は、少し決まり悪げに天井に目線をやる。
「画商が孫候補だって言えば今の時期は比較的楽に家の中に入れるって教えてくれたからさ。騙したみたいで、悪いな」
「画商とは長谷川画廊のことでしょうか」
「そうそう。長谷川太一さん」
 長谷川め、と紘和はここ半年顔を合わせていない友人兼出入りの画商を脳裏で睨みつける。人の心労を嘲笑うかのような長谷川のやり口に目眩がしそうだ。
「とにかく、そういうことなのでしたら吉井もお会いになるかもしれません」
「ほんとに? 会わせてくれるの? 俺自分のお客さんに会うの初めてだよ。うわ、すごい緊張する」
「でも、絵をお売りになるのは初めてではないのですね?」
 ならば画家志望と言いつつ半分画家のようなものではないか、と思う。
 このレンブラントの夜警の模写も、紘和はなかなか好きだった。
本物よりも光が強く、青みが深い。登場人物の表情も夜警の緊張が微かに画布から溢れてくるようなそんな気迫があった。実際、この屋敷にある絵の中で一番気に入っていると言ってもいい。
「模写が売れるなんて初めて聞いたけどな。模写なんて、ルーブルに行けばすごいたくさんの奴等がやってるぜ? この間のルーブルで見たドラクロワの模写なんてほんとすごい精緻でさ、びっくりするよ。俺の模写なんて本物じゃないって一発で分かるのに。よく買ってくれたよなぁ」
「吉井は、本物にそっくりな模写が欲しいわけではないようです」
 絵心のない紘和には模写は非常に難しいもののような気がするが、実際絵を習っている人間にはそんなに難しいものでもないらしい。そのまま写せばいいだけだろう、と長谷川は何でもないことのように言う。
「本物そっくりじゃない模写が好き? 何かひねくれた食えないじいさんだな」
 その通りだ、と詠の率直な意見に心の中で賛同する。
「ではそのひねくれた食えないじいさんに話をして参りますので、少々お待ちください」
 紘和はしっかり45度のおじぎをした。




 翁は紘和の話を真剣に聞き、孫候補などといううんざりするものではないことが分かると非常に嬉しそうに笑った。なので紘和も、彼が翁によく似ていることは伏せておいた。「夜警」の作者が来ただけなのだ。容姿がどうなどということは関係がない。
「通せ」
「こちらにですか?」
「このサスキアも見せてやりたいのだ。よく見ろ、サスキアも彼の作だろう」
 上機嫌な翁に言われてよく見ると、今度はサスキアのドレスのベルベット部分に、ベルベットの深い赤より少し明るいグーミエで「A」と書かれているのを発見した。このサスキアは本物よりもどこか東洋的な雰囲気を持っている、と常々思っていたがその理由が今はよく分かる。
「ではお連れします」
 階下で詠はまたぼんやりと「夜警」を見ていた。
「正岡様、主人がお待ちです」
「正岡様? そんな呼ばれ方したことないよ。あのさ、詠でいいよ」
「では、詠様」
「……堅苦しいなぁ。歳だって大して変わんないだろ?」
 詠は困ったように頭をかく。
「そんな呼ばれ方したら、俺はあなたを吉井様って呼ばなきゃならないよね?」
「私は使用人ですから、どうぞそんな呼び方をなさらないで下さい」
「……旦那様と同じ名字なのに」
 どこか腑に落ちないような詠の声に紘和は困ったように笑うしかない。



 
 マホガニーのドアをノックすると中から「是」の声がする。
 重厚な扉を開けて詠を促すと、詠はその部屋の素っ気ない豪華さに驚いたらしい。へぇ、と間抜けな声をあげて見回していた。
 吉井紘一郎はもともとの家柄がいいというわけではなかったが、品の良さを兼ね備える完璧な政財界の大物なのだ。調度品は細部に凝ってはいるが、ごてごてとした飾りはない。この部屋の唯一の赤は「サスキア」というぐらいに派手さはない。
「はじめまして。吉井紘一郎です」
 どんな人間にも初対面は礼儀正しく。
 翁の基本の考えである。
「あ、はじめまして……、て……」
 一歩足を踏み出した詠が、目を凝らすようにして紘一郎の顔を見た。紘一郎も、眼鏡の奥の目が凍り付いている。あまりに自分にそっくりで驚いたのだろう。
「じーちゃん?」
 次に驚かされたのは紘和だった。



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