Delicacy2



 多くの講師や、助教授たちのひしめく講師室に佐伯はいない。
 普通の講師は非常勤であることが多いので講師室にいるのだが、佐伯は先月病気で倒れた種田教授の代理で来ているので、種田教授の部屋にいることが多いらしかった。
 個室になっている教授室ならば、他に誰もいないのでもっと頼みやすいだろう。明石は安堵した。さすがの明石にも羞恥心ぐらいはある。
「あの」
 普通の学部棟と違って廊下にはじゅうたんが敷き詰めてある教授棟には、受付嬢が座っている。手持ち無沙汰なのかどこかぼんやりとしていた女性は、明石が声をかけると嬉しそうに笑った。
「はい? 何か御用ですか?」
「僕、経済学部の2年8組の明石なつめと言います。佐伯先生にお話があるのですが、種田教授の部屋に佐伯先生はいらっしゃるでしょうか?」
 佐伯の名が出た途端、受付嬢の目つきが変わった。
 鋭くなった、と思ったのは明石の勘違いではないだろう。
「失礼ですけれどどういう用事でしょうか。佐伯先生は忙しい方だから…」
「前期のテストの採点で納得のいかないところがあるんです。どうしても見ていただきたくて」
 言い訳ならすらすらと出てくる。
 なんならどこが納得いかないかここで受付嬢に説明したっていい。明石は成績優秀な学生なので、自分のどこが間違っていてどういう風に佐伯が採点をしたのか分かってしまう。
 なので、説明も簡単なのだ。
「そうですか。少々お待ちください」
 にっこりと微笑みつつも警戒心を隠しきれていない受付嬢を見て、佐伯がこの受付嬢とできているかそれとも種田教授の教授室に女を連れこんでこの受付嬢に嫌われているかの二択だな、と明石は思う。
 それにしてもこの受付嬢、佐伯の客ならば男でも警戒心を抱くらしい。
 だったらやはりバイセクシャルなのかもしれない。
 よかった、と更に深い安堵のため息を漏らす明石だった。
 ここに大下か市川がいたならば、明石の安堵のため息は何かが違うと教えてあげれたのだろう。しかし、今明石は一人だった。
 この状況は幸か不幸か。
 そんなことは誰にも分からない。



 ぼんやりとカウンターを見つめている明石をちらちらと確認しながら、受付嬢がどこかに電話をする。
 漏れ聴こえる低く甘い声はきっと佐伯だろう。
「もしもし、佐伯先生ですか? ……はい、今こちらに経済学部の2年生8組の明石なつめさんがテストの採点のことでいらっしゃっていますけれども……え? あ、よろしいですか? はい…では」
 そう言って電話を切ると、今度は何か探るような目で明石を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見回す。
「種田教授のお部屋どうぞ、とのことです」
「あ、そうですか。何階ですか?」
「6階になります。……ねえ、あなた何者?」
 急に口調が砕ける。
 明石にはどこか人の警戒心を解く雰囲気があるのだろう。明石と対峙していて嫌な気分になるタイプの人間はあまりいない。受付嬢もそうだったのだろう。
 明石に対して嫌な感じをもった話し方では決してない。ただ知りたいだけのようだ。
「……学生ですが」
「そうじゃなくて、佐伯先生の何なの?」
「……生徒ですが」
「今まで佐伯先生を尋ねてくる子って彼のお相手が多かったのよ……まさか……」
「お相手、ですか。僕はあまり佐伯先生と親しくはないのですが……。何のお相手のことでしょう、身に覚えがありません」
 首をかしげて微笑んだつもりだったが、表情に乏しい明石が首をかしげてもただ真面目に疑問に思って首をかしげたようにしか見えないらしい。
 彼女は逆にその表情のおかげで明石を信じたようで、小さく頷きながらエレベーターを指し示した。
「あれに乗って行ってください。妙なこと聞いちゃって悪かったわね」
「いいえ。お気になさらず。どうもありがとうございます」
 俺は役者になれるんじゃないだろうか。
 明石はエレベーターの重力に逆らいながら、人を見る眼なら百戦練磨のような顔をしていた受付嬢を騙せたことに思わずほくそ笑んでしまった。



 種田教授のドアの前に立つとさすがの明石も緊張する。
 これから頼もうとしていることが普通ではないことぐらい明石だって知っている。
 それでも、セックスが違うと泣かれた昨日は本当に悔しかったのだ。
 華奢で可愛い女の子と結婚するのが夢だった明石にとって美和子は理想の女性だ。
 なぜなら明石自身があまり体格がよくないので、体格のいい女の子と付き合ってしまうと明石が貧相に見えてしまうからだ。その点、美和子は問題ない。
 華奢な身体にぼんやりした明石をまとめて引っ張っていけるだけの強気が詰まっている。家事もものすごくできるわけではないが生活できる範囲でこなせる。色々なことに興味があるから、話題も豊富で楽しい。
 そんな美和子をセックスの相性一つ如きで手放したくなかった。
 セックスの相性は大事だ。しかし、努力すればなんとかできるものなのかもしれない。知らずに諦めるのは嫌なのだ。
 できる努力は最大限にする。
 これが明石のモットーである。
「失礼します。明石です」
「はいどうぞ」
 中から涼やかな声がした。佐伯は涼やかだけど甘くて低くて腰に響く声もいいのだ、とクラスの女生徒が色めきだっていたのを思い出す。
 中に入ると、思ったよりも雑然とした部屋が目に入った。
 壁一面に張り付くように並べられた書棚に、満杯の書物。長めのソファと大き目のデスクにもたれるように積み上げられた書物。それ以外には何もないのが教授室らしい。
「ああ、明石」
 佐伯はぱらぱらと手元の本をめくりながら、明石を見上げてにやりと笑った。
 にやり、と笑う顔も、佐伯のファンと称する人間にはたまらないのかもしれない。こんな表情も会得しておくべきか、と明石は心の中にその映像を留めておくことにする。
「フランス語の成績はクラスでトップのお前が何の用だ?」
 テストの採点が問題なのではない、と佐伯は気付いているようだった。
 ならば話は早いとばかりに明石は本題を切り出す。
 佐伯のファンではない明石は、彼と雑談して時間を共有するためにここにいるわけではない。
「実は」
「俺のこと好きなの?」
「いいえ」
「……お前、面白くない反応返すね」
「面白がられるのが好きなわけではないんです」
「あ、そう。で?」
 貴公子然とした見かけからは遠く離れた、ずいぶんぞんざいな口をきく講師だ。
「先生、以前美和子と付き合ってたんですか?」
「美和子?」
「僕と同じクラスの、田代美和子です」
「……あ? あー、ああ。分かった分かったあいつな。うん、一時期」
「美和子、あなたのセックスが忘れられないようです」
 明石は無表情に淡々とそう告げた。佐伯は明石のすっきりとさわやかな顔から何のてらいもなくセックスなどという言葉が出るとは思わなかったので、さすがに目を瞠った。
「へえ。だから?」
 それでもそう返せるのが佐伯の余裕ではある。
「先生のセックスを俺に教え込んでくれませんか?」
「…………お前、何言ってるか分かってんのか?」
「もしも美和子が先生の人間的なものに惹かれているのだというのでしたら、僕は身をひくしかないのですが。セックスが、と言われたので、努力次第で何とかなりそうだと思いませんか?」
 明石はこの時点ですら至って真面目な気持ちであった。
 佐伯から見ると、滑稽を通り越してこの真面目さは不気味ですらある。自分も大概ふざけた人間だと思っていたが、明石は群を抜いているのではないだろうか。
「明石ってプライドねぇの?」
「何のですか?」
「男の。前の男のセックスが忘れられないなんて屈辱以外の何ものでもないんじゃねえの?」
「別に。僕はセックスをまともに学んだことがありませんから」
 段々面白くなってきた、と佐伯は笑みを浮かべた。ここまで真面目なのはもう一種の芸としか思えない。
 明石にセックスを教える。
 それもまた面白いような気がした。
 明石の見た目は悪くないし、何より肌がとてもきれいだ。この肌ならば並みの女よりずっと触りごこちが良さそうだ、と佐伯は思う。 
「よく考えれば、セックスは人間が生活を営む上で重要な要因ですよね。なのに、その技術を堂々と学べる機会はあまりにも少ない。これはいいチャンスだと思うんです」
「面白すぎるぞ、明石」
 淡々とそう告げる明石のことを茶化しつつ、佐伯はもう抱くつもりでいた。
 この表情に乏しい男が、自分の腕の中でどんな顔を見せるのか。
 それにとても興味がある。
「ご教授願えますか?」
「報酬は?」
「ああ、考えていませんでした」
「次までに考えとけ」
 そう言うと、佐伯は明石に右手を差し出した。
 明石もそれが返事と思い、右手を差し出して握手をしようとする。
「最初はキスな」
 明石の右手を力いっぱい引き、佐伯は明石を腕の中に抱き込んだ。
 軽く目を瞠った明石だったが、すぐに観念したように目を閉じる。
 左手で腰をゆるく抱き、右手で明石のあごをとらえた佐伯は、閉じられた明石の唇を右手の人差し指で軽くくすぐってほぐす。
 まずは上唇と下唇を交互についばみ、くすぐったさに耐えられなくなった明石が唇を軽く開くと舌を差し入れた。
 明石はその舌が思った以上に厚く甘い味がして驚く。
「ん…ふぅ」
 上あごをざらりと舐めとってから、明石の舌を舌で遊ぶように絡めとって吸ったりつついたりわざと離したりして堪能した。
 明石は口腔で巧みに動き回る舌に翻弄されつつもその動きを覚えようと理性を保ったが、そんな明石よりも佐伯は先に理性が飛んでしまいそうになった。
 明石は、佐伯が思っていたよりも遥かにキスがうまい。
 軽く口を離した時に漏らす吐息も、佐伯の舌に絡みつこうと追いかける舌も、今まで抱いたどんな人間よりも甘い香りがした。
 唾液が互いの唇から溢れる前に、佐伯は唇を離してその唾液をすすった。わざと湿った音をたってて吸い上げると、明石が軽く眉を寄せた。
「あ…、ん」
 吐息だけじゃなくて、声も甘い。
「なぁ……お前、結構……いやいや、かなり色っぽいぞ?」
 お世辞ではなく囁くと、シャツにしがみついていた明石が佐伯の首筋に唇を寄せた。
「最初の、ご教授ありがとうございます」
 いつもと同じ冷静な口調なのに声はひどく甘やかで艶っぽく、首に触れる吐息に不覚にも佐伯は背筋が粟立ってしまった。
「では、失礼します」
 するりと佐伯から離れた明石が、ドアの向こうに消える。

 もしかしたら明石に溺れるかもしれない。

 そんな予感が佐伯の胸をよぎっていった。






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