Delicacy 1



 昼時より少し前の学食。
 飛び石のようにいくつもいくつも並べられた長机に頬杖をついて、明石なつめは重たいため息をついた。
「はあ…」
 普段の明石はのんびりしていてあまり物事に動じない。その分、他人に感情を露わにすることも滅多にない。その明石がため息をついている。これは珍しいことなのだ。
「よお、明石。何か悩んでんの?」
 呑気な声で近寄るのは市川で、その大柄な体からは強烈なスパイスの匂いがした。
「またカレーか」
「うるせーな安くて美味いんだよ」
 どう考えても安さに重きをおいている市川がほくほくとスプーンをくわえた。
「いただきます」
「召し上がれ」
 脳天気な市川の脳天気な顔を見ると、明石は更に気分がゆるやかに落ち込んでいくのを感じた。
 自分の気持ちが落ち込んでいるときの他人の笑顔ほど憂鬱なものはない。
 気分が落ち込んではいても、顔には出ないので誰にも気付かれてはもらえないのだが。
「なあ、市川」
「あー」
 市川は目線を合わせようとしない。彼の目は早々と中身が消えゆくカレー皿に夢中だからだ。
「やっぱり、男はテクニックなのか? 俺程度のテクじゃ愛は表せないと思うか?」
 繊細そうな容姿で物憂げな明石の口調とその内容があまりにミスマッチで、市川は思わず口の中のものを噴き出してしまいそうになる。
 一瞬のどの手前の方でカレーが詰まって、慌てて飲み下した。
 その衝撃に言葉も詰まる。
「ば、ばば、ばかじゃねーの?! 何言ってんの!」
「…………お前、大下とつるんで女遊びしてただろう。だったら、テクニシャン?」
「あ、あぁ…?」
 市川の動揺などものともせず、明石はふと遠い目で言葉を続ける。
「美和子に、前の男が忘れられないって泣かれたんだ……。俺は研究とかそういうのが好きなほうだから、美和子がどうすれば喜ぶかずっと考えていたし……だから実を言うと、結構自信はあった。今まで付き合ってきた彼女たちにはいいって言われてたからな。でも」
「や、やめろ明石。そういう相談は俺にするな」
 水を一気に飲み干した市川の顔は、赤くなったり青くなったりのフル稼動だ。
 自分のせいだというのに明石は、忙しない奴、と冷淡にも思っていた。
「じゃ、誰にするんだよ」
「何だよー。そういうのは俺だろー」
 明石の背後からどこか楽しそうな低い声がした。
 見上げるようにして振り返ると、大下がいた。
 長身で整った顔の大下はアイスクリームカップを片手に肩を震わせている。この、クールな見かけに似合わず甘い物好きの大下は笑い上戸だ。
「で、美和ちゃんは前の男のなにが忘れらないんだって?」
「セックス」
 再び噴き出しそうになる市川など無視して、カップの蓋を舐めながら大下はくつくつと笑った。
「お前って男は大概デリカシーないねぇ」
「今更お前らの前で気取る気なんかならない」
「もっともだ。で、美和ちゃんがいつどこで泣いたのよ」
「昨日、ベッドの上で」
「羨ましい状況じゃないか」
「お前の考える《なく》の字は俺が言ってるのと多分違う」
「分かってるよバカ」
「じゃあ茶化すなバカ」
 ぽんぽんと言い合っている二人の会話を市川は聞こえない振りでやりすごすことにしたらしい。カレーライスがさっきよりも早いスピードで、みるみるうちに皿から消えていくのがその証拠だ。
「市川もいちいち照れるな。こんな話題どうってことないだろ?」
「ど、どうってことあるよ! 俺は汚れてねえ」
「汚れる? 失礼な奴だな。セックスなんてみんなするじゃないか」
 自分は明らかに正常な反応をしている、と自負している明石は何の照れもなくそう言い放った。
「まあいいじゃねーか。でさ、明石。俺美和ちゃんの前の彼氏知ってんぞ?」
「誰だよ。教えてくれ」
「佐伯」
「…………佐伯、か」
 佐伯。
 まさかその名をここで聞くとは思わなかった。
 佐伯とは明石たちのクラスの、フランス語の講師である。
 フランス人と日本人とのハーフらしく、髪の色や目の色が薄い茶色で、顔は整ったいわゆる美形だ。三十代前半だと噂される美形の講師はクラス中の女子の人気者で、明石は別に知りたくもなかったが色々な情報が無意識のうちに耳に入ってきている。
「あー? 美和子ちゃんの元彼は佐伯かぁ。そういや佐伯と大下って仲良いよなぁ」
 カレーを食べた後にアンパンを食べる市川の、その食べ合わせに眉根を寄せながら大下は頷いた。
「俺と佐伯は同志だからな」
「…………女好きってことだな」
 ため息混じりに呟いた明石の言葉に、大下は大げさに頷く。
「その通り。俺と佐伯は結構濃い兄弟なんだぞ」
「兄弟? え? なにそれ」
 同じ女を共有する人間をそう呼ぶという下品な俗説を知らない市川が、無邪気に大下を見上げた。
 明石はやめておけ、と手を振ったが、そのうち意地の悪い大下が真実を告げるだろう。だが、今はそれどころではない。
「お前も美和子とやった?」
「いーや。俺は美和ちゃんを食ってねえよ。俺はあそこまで華奢な子はちょっと苦手なんだよ」
 豊満な女のほうが気持ちいいんだ、それはな……、と自分の内に目入り込みかけた大下の頭を軽く叩いて、明石が現実に呼び戻す。
「美和子ちゃんて佐伯のそこだけがいいの?」
「さあな。とりあえずセックスって言った」
「じゃあお前さ、佐伯にセックス教えてもらって来いよ。そうすれば佐伯と同じセックスで美和ちゃんを喜ばせてやれるかもよ?」
 にやり、と大下は楽しそうに笑った。
「な、に言ってんの? 」
 正気かよ、と愕然とする市川をちらりと見やった明石は、真剣に腕を組んだ。
「ふ…ん……いいかもな」
「え?」
 驚きの声は二方向からあがる。まさか、いいかもしれないなどという言葉が明石の口から出るとは二人とも予想していなかった。
「大下、佐伯ってバイセクシャルか?」
「え? そこまでは知らねえよ」
「そうか。じゃあまずそこから聞くしかないな」
「なんだ明石。本気か?」
「教えてもらえるもんならな。別に構わないだろ? 俺が佐伯に教えてもらって何かまずい事でもあるのか?」
 真面目な目でそんなことを言われてみると、はっきりまずいことがあるわけではない、という結論に達する。大下は小さく肩を竦めてかぶりを振った。
「でも、もし佐伯がバイセクシャルだったらさ、お前やられちゃうかもしんないんだぞ!」
 佐伯は均整の取れたモデルのようなスタイルで背も高い。明石の方が小さいのだから押し倒されたらそういう目にあうに違いない。
「ああ、しょうがないんじゃないか? それにやられる方だったら俺が美和子と同じ体験が出来るわけだから、より詳しく覚えられるじゃないか」
「それで正気だから明石はすごいねぇ」
 楽しそうに呟いた大下の好物のアイスクリームが溶け始めていた。



NEXT

TOP









SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送