Delicacy 3


 ドアを静かに閉めると、明石はへなへなとその場に座り込んでしまった。
 言葉もなく、足も動かない。
 このままここにいるわけにいかないことは分かっているのだが、どうしても動けなかった。
 これが腰砕けになる、という状況なのか。
 明石は案外冷静にそう思った。
 しかし、脳はきちんと動いているのに身体がうまく動かない。金縛りみたいだ。
 こんな感覚は初めてだった。


 無意識に指先が唇に触れる。
 すると、先ほどまで口の中を動き回っていた舌の感触を思い出してしまう。
「…っ」
 厚い舌、熱い息と唾液。
 腰をゆるやかになでる優しい手のひら。
 通った鼻筋。ふわりと鼻をくすぐったコロンは、明石が今までかいだことのない官能的な匂いがした。
 最初に指で唇に触れたのは、指が濃厚なキスのトリガーになるからかもしれない。あのキスをもらった人間は、指先が唇に触れるたびにあの味を思い出す。
 これで佐伯を忘れられるわけがないじゃないか。
 そう分析すると、佐伯の巧みさに改めて感嘆の念を抱く。
「まずいな」
 勉強しても勝てないかもしれない。でも学ぶ価値はありそうだ。 
 砕けた足腰に鞭をうち、明石はふらふらと教授棟をあとにした。



 教員としても学生食堂はありがたい存在である。
 佐伯も食事は大抵ここでとる。貴公子めいた顔で牛丼やらサバの味噌煮などを食べていると、学生達の興味深げな眼差しを一身に受けるのが好きなのだ。
この世に生を受けてからずっと、人の視線を人一倍浴びて生きてきた。佐伯にとって人の視線は生活の一部でもある。
「よお、美男子」
「何だ大下か」
 冷奴とサンマの塩焼きをつついていると、大下が変な顔をして近づいてきた。
「相変わらず顔に似合わないもの食うねぇ」
「母親の故郷の食い物は俺の肌には合わないんだよ」
「似合ってんのにな。あんたがここでフォアグラとか食ってみろよ。周りの女の子達の目が釘付けになるって」
 本気で羨ましそうに大下は言う。自分もそれ相応の注目を浴びるくせに、と佐伯は胸の中で呟いた。
「バカ言え。学食にフォアグラがある学校があるか」
 鼻で笑って食事を続けた。
 今日は思いがけない来訪者のせいで昼を食べそびれたので、空腹が頂点に達しているのだ。にやにやと意味深に笑う目の前にいる、下世話な「オトウト」のことなど構っていられない。
 そういえば、大下は明石と同じクラスか。
 それを思い出して食器から顔をあげると、大下は依然にやにやと笑っていた。
「珍しく飯にがっついてるじゃん」
「腹が減ってるだけだ」
「昼休み、飯じゃないもの食ってたからだろ?」
 切り札とばかりに声を低くして告げた大下は、どうやらいきさつを知っているらしかった。
「……食ってない」
「へえ。もったいねえなあ。明石ってあんたのタイプだろ?」
 確かにそうだった。
 顔つきがすっきりしているのも、体臭がきつくないのも佐伯の趣味にぴったりだ。
 キスをする前とした後の、色気にものすごい落差があるのも興味深い。
 明石のような男は、はっきり分類してしまえば佐伯の好みに入るのだ。
 だが、あの唐突さにはしゃくぜんとしない。
「まさか、たきつけたのお前か」
「まあね。原因は美和ちゃんだけどな」
 あっさりと認めた大下に、佐伯は納得した。
 大下が一枚噛んでいるのならば、あの突飛な申し出も半分ぐらいは理解が出来る。
「美和子、ってあれだろ? かなり頑固な感じの」
 付き合っていた、といっても佐伯にとっては身体だけの関係だったので、顔はおぼろげにしか覚えていない。性格に至ってはまるで覚えていないが、しっかりした目だけは何となく覚えていた。
「そうそう。頑固な美和ちゃん。あんたに惚れてたんだって」
「お前も食ってるだろ? オトウト」
 佐伯は、嫌味をこめてそう言った。
「食ってねえよ、アニキ。あんたにずっと惚れてたの知ってるし、そのあとちゃんと時間をかけて明石に興味が移ったらしいしな。でもあんたをまだ忘れらんないんだって。あの子男の趣味悪いよ」
 明石の方がいい男だろと呟かれると、さすがの佐伯でも気に障る。
「で、明石も彼女に惚れてるんだろ?」
「さあ」
「惚れてもないのにあんなこと頼みに来るかよ」
「真面目だからだろ? 本気で惚れてたら昔の男にそんなもの習いに行くかよ」
 それはもっともだ。佐伯もそう思う。
 大抵の場合、「昔の彼氏が忘れられない」と言われたら、どうするだろう。
 佐伯の予想できる範囲では、誠心誠意をもって自分の魅力に気付いてもらって必死に彼女の気を引き戻すか、それかきっぱりと別れてしまうかどっちかしかない。
 明石のような反応は、きわめて稀なものだと思う。しかし、あの男の風情はそれをも納得させる何かがある。
 明石だったらあの反応で間違いではない。そう確信できる。
「まーでも明石ならね、ああかもしれないと思うよ。あいつ、変に食い下がるの似合わねえし」
 大下は佐伯と似た見解を口にしながら周囲を見回し、軽く手を挙げて誰かに挨拶をした。
 その目線を追うと、その先には市川がいた。彼は大下には嬉しそうに近寄るが、目の前に佐伯がいるのが分かると顔をこわばらせた。
 市川は、素直だ。何でも顔や態度や言葉に出る。
 分かりやすい奴だ、と今まで大下や明石のようなのを相手にしてきた佐伯はどこかほっとした気分になる。
「なんだ、市川も知ってるのか」
「明石は案外バカだからな、市川みたいなのの前でも平気でそういう相談をする」
 市川は恐る恐る佐伯の顔を見つめて、大下の横に座った。
「……ちーっす」
「よお。市川、俺はまだ明石を食ってないからな」
 率直にそう告げると、市川の顔が赤くなる。
 高校生みたいな反応をする、と大下が楽しそうに話してくれたことを思い出す。
「な、なんだよ、そんなこと聞いてねー」
「まだ、かよ。これはもうあぶないね」
「当たり前。折角来てくれたんだ。食わせてもらわないと悪いだろ」
 そういえば明石は報酬がどうのとか言っていたな、と思う。
 報酬は明石の身体で充分だと甘く囁いてやったら、彼はどんな顔をするだろう。大下と市川をからかったことで困惑が幾分和らいだ佐伯は、明石の次の訪問を楽しみにしていた。



 大下は教室に入って驚いた。
 明石の様子がいつもと違う。
「ああ、大下おはよう」
「……ん」
 大下に話し掛ける口調は普段と変わりはない。しかし、その目がおかしい。
 すっきりとした黒目がちの目はどこか潤んでいる……ように見える。
 男の割に長いまつげが震えている……ような気がする。
 気のせいかと思いたいが、明石の横にすでに座っていた市川の身体が強張っているので、大下は気のせいではないと気付いた。
「市川……」
「お、大下ぁ」
 情けない声だ。明らかに今までとはどこか違う、艶っぽい明石に緊張しているらしい。
「肩の力抜け。な?」
「市川は俺のことを軽蔑してるんだよな」
「え?」
 ため息混じりに明石がそう言う。それがまた色っぽい吐息で、大下ですら目を瞠ってしまった。
「佐伯にセックスを習いに行くなんて、正気の沙汰じゃないと思ってるんだろ? でも俺は正気だ」
 真剣な目で市川を覗き込むが、それが逆効果なのだということに気付いているのは大下だけである。
「まあ待て明石。お前昨日は食われてねえんだろ?」
「うん」
「何されたの?」
「キス」
「それだけ?」
「フレンチキスだった」
 さすが半分フランス人だな、などと真面目な顔で言われても笑うに笑えない。
「どうだった?」
「上手かった」
「……それでお前今日はこんなにフェロモンを撒き散らしてんのか」
「どういう意味だ?」
「何か色っぽいよ、今日の明石。なあ市川」
 市川は何度も何度も大きく頷いた。
「今までキスして気持ち良かったことは?」
「キスは付き合ったら義務みたいなものだろ? 気持ちいいとかあるのか?」
 明石から返ってきた言葉は、大下にとっては予測の範囲内だった。
 今まで明石は人とのスキンシップに快楽を感じたことはないらしい。
 その、時には不真面目にさえ思えるほどの生真面目さが、彼からそういう感覚を遠ざけていたのだろう。
 そう考えると、明石に佐伯は刺激が強すぎるかもしれない。
「キス一つでそんなんなっちゃったら、これからどうなるんだ」
 大下の呟きは、明石や市川にとって訳の分からないものだった。



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