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虚無憧憬



 奥村君って何か違うよね。
 社会人になってから初めて付き合った子から呆れたように言われた。
 実は初めてじゃない。
 高校生のときのガールフレンドにも、大学生の頃のサークルの仲間にも言われた。
 何か違うよね。
 何か、とは何だろう。
 僕が何かと言われて気付くとでも思っているのだろうか。
 何か。何か違うと何か悪いことがあるのだろうか。
 呆れたように言われるようなものなのだろうか。
 だけど「よね」と同意を求められてしまったら、「うん」と言ってしまうのが僕という人間で。
 そういうところが何か違うのだろうか。
 本当によく分からない。
 今回も「うん」と言ってしまって、結局その場で別れてしまった。
 また僕は振られたのだ。
 とりあえず、別れた場所が池袋でよかった、と僕は思う。
 僕の通っていた学校や会社から遠く離れた池袋でならば、知り合いと出くわすことなどほとんどないからだ。
 こういうときに僕は非常に情けない顔をしているらしい。
 昔付き合っていた女の子と別れた直後に会った友達にそう言われたのだ。
「お前、何かすごくみっともない顔してるぞ」と。
 みっともない顔、と言われるのは情けない顔、と言われるよりも僕にとってはましに思える言葉だったのだけれど、あまり嬉しい言葉と言うわけでもない。
 どっちにしろ僕は、自分で女の子を振ったことはない。いつも振られてしまうのだ。そこがまた情けないというかみっともないというか。
 とにかく僕はピシッとしているタイプではない。
 そんなことは自分でよく分かっているのだから、友達に言われてしまうといささか腹立たしい。だから会いたくないという感情が浮かぶのだ。
 僕にだってそういう感情はある。しかし、好々爺のような顔とよく評されるところからすると、僕に怒りが存在することを知っている人は少ないのではないだろうか。
 自分で言うのもなんだが、本当に僕は何だか……情けない。
 僕は小さく溜め息をついて、駅の方面に向かった。
 飲みに行きたい気分だったのだが、池袋に知っている店がないので、新宿まで戻ろうかと歩き始めた時だったのだ。
「おい。飲みに行くなら俺もつれてけよ」
 ぴたりと足を止めて、声のしたほうをゆっくりと振り返る。
 知り合いに会うことなどないと思っていたのに、なぜかそこには見知った顔があった。
 少し長めのむさくるしい髭とぼさぼさの髪の毛がよく似合って、映画の『イージー・ライダー』から抜け出してきたような男らしさを演出している。
ネオンの洪水のおかげで昼間のような明るさだとはいえ、宵だというのに目元はサングラスで隠されていて、ややもすると風俗のスカウトのような怪しげな雰囲気を醸し出してもいる。
 着ている服は、黒のハイネックのニットと黒の皮 ――本皮か合皮か僕には見分けがつかない――パンツ。更にバーバリーの黒のトレンチコートだ。
 どうみても堅気の人ではないだろう。だが僕は、彼が一応堅気の人だということを知っている。
 この妙に迫力のある知り合いは、僕の友人の友人で柳橋という。
 大学時代、何かの縁で一回だけ一緒に飲みに行ったことがあった。
 柳橋と僕の共通の友人が所属するサークルの飲み会に、人数合わせで連れて行かれたときだ。
 一見怖いのだが話してみるとものすごく博識で、仕草の一つ一つがかっこよい人物で、かなり魅力的に思えた。
 彼ははっきりと男から憧れを抱かれてしまうようなタイプだ。
 僕が唯一皆に認められているのは第一印象の確かさだ。だから自信を持ってこう言ったのに。
 それなのに、僕の友人は次に会った時に彼の話をすると、彼を忘れているのだ。
 そんな人いたっけ? 全く覚えがないなあ、と。首をかしげてそう言う。
 僕は大学ですれ違うたびになんて目立つ奴だろうと思っていたのだが、他の人には違うようだ。
 ここも、何か僕と人とが違うところなのか? ……ああ、今日の僕はひがみっぽい。
「飲み行くんだろ? にーさん。俺も飲みたい気分なんだよ。一緒に連れてってくれよ」
 柳橋は先ほどと似た台詞を繰り返す。僕はいきなりの彼の出現と台詞にかなり驚いたので、彼の名前を呼ぶくらいしか出来なかった。
「や、柳橋」
「え?」
 僕の上ずってかすれ気味の声が聞き取りにくかったのか、柳橋は真剣な顔になって眉をひそめる。
「久しぶりだな、大学卒業してだから、一年ぶりぐらいか? 飲みに行くのはそうなんだけど……。新宿まで行こうかと思って。柳橋はどこに住んでるの? 新宿で飲んで帰れるところに住んでるの?」
「……お前」
「あ、柳橋もしかして僕のこと忘れてるのかな…?」
「お前、俺のこと覚えてんのか?」
 おかしな質問だ。僕は思わず眉を寄せたけれど、柳橋は真剣な表情のままだった。
 僕が何か変なことでも言ったのだろうか。
 まず、先に声をかけたのは柳橋だ。柳橋が僕のことを覚えていたから今の会話は成立しているわけで、柳橋が忘れていたならばありえない会話なのだ。
 彼は、決して僕から進んで話し掛けられるような雰囲気の男ではない。
「あのさ、ええと、何言ってんのか分かんないんだけど。だって、君は柳橋だろう? 澤口の友達だったよな?」 
 僕は何だか訳も分からず柳橋と関係のあるだろう友達の名前を口にする。
「澤口? ……ああ、あいつな。でも、あいつは俺のことは覚えてなかったはずなんだが。何故お前は覚えてるんだ?」
 サングラスの奥にある柳橋の瞳が微かに戸惑いを見せていることに気付いていた。
 柳橋が戸惑う。柳橋が?
 彼も人間だったか、と、妙な納得をして僕は幾分かリラックスすることが出来た。
「お前って呼ぶなよ。僕の名前は……」
「奥村伸二」
 僕の自己紹介を遮り、更に僕のような印象の薄い男の名前を完璧に再現して口にした柳橋は、薄ら笑いを浮かべてサングラスを外した。
 男臭い顔に鋭さを加える眼光が、遮るものなしに僕を見ている。僕は再び緊張するかと思ったのだが、そんなことはなかった。柳橋の鋭い目が微かに笑みをたたえているからだろうか。
「奥村。澤口は元気か?」
 突拍子もない質問だと思った。それでも律儀な僕は頷いた。
「元気だと思うけど。最近飲みに行ったんだ、澤口とは。そしたらあいつ柳橋のこと覚えてないって言ったんだよ。記憶力悪いやつだよなあ」
「いや」
 柳橋は飄々とした口調で、僕の感想を否定する。
「普通のやつは大抵、俺のことは覚えていないんだ。俺は人の記憶に残らない存在だからな」
「は?」
 柳橋は僕の期待を裏切ることばかり言う。
 会話をしている時に相手の話題の先が読めないときほど辛いことはないというのに。
「映画の編集作業って分かるよな。連続するシーンの中でいらないところをぷつりと切るやつだ」
 柳橋は両手がハサミであるかのように、指先で何かを切る真似をした。
 何か、演技めいたその仕草さえ絵になるのだから、柳橋はずるい。
「俺はそのぷつりと切られる場所に存在する。映画はその一場面を削除しても話が繋がる。俺もそうだ。俺という一個人を削除しても人の記憶はうまく辻褄が合うようになっている」
 つまり、と言って柳橋はトレンチコートの胸ポケットから煙草を出した。箱からするとジョンプレイヤーのように見える。ジョンプレイヤーを愛好している煙草飲みに、日本で会った事はない。
 けれど、柳橋にはそれがとても似合っている。
「つまり、俺は人の記憶に残らない存在なんだ。一晩たてば、皆俺を忘れる」
 ジッポで点けた煙草の先が赤くくすぶっている。そこから漂う甘く鋭い煙の香りは、柳橋が正に映画の一シーンにいるかのように演出している。 
 僕はといえば。
 ただ観客のようにそこにぼうっと立ち尽くして柳橋の所作に見惚れていただけだった。
 話の中身などまるで飲み込めていない。ただ、柳橋が何だか突拍子もないこと言ってるな、ぐらいの気持ちだ。
「だから澤口は、俺のことなんて忘れているだろうな。俺とあいつは一日限りの付き合いなんだ。俺は記憶力がやけにいいから一日限りの相手の顔や名前は大体覚えているが。俺は驚いたわけが分かるだろう? お仲間 ――つまり、同じ体質だな。お仲間以外で俺のことを覚えている人間がいるなんて今まで考えたこともなかったんだ」
 柳橋が煙草をふかす。
「奥村、お前お仲間か?」
 僕は慌てて首を横に振った。僕には、僕の幼稚園時代の失敗を未だに楽しそうに語る幼馴染みもいれば、ノートをたかりにくる連中もいた。
 そんなことのために存在するならば、いっそ忘れてくれたほうが清清しいぐらいだ。
「だよな。それにしても、不思議なもんだ。暇にあかしてもぐりこんだ大学にこういう体質のやつがいたとはね」
 柳橋が煙草をつぶす。右手のてのひらの中で。そして、嬉しそうに笑った。声も心なしか高揚しているようだ。
「柳橋、僕にはまだちょっと飲み込めないんだけど」
 鈍いやつだな、となぜか浮かれ気味の声で言われてしまう。
「いいんだよ、飲み込めなくても。俺に付き合ってるうちに分かってくる。今俺が何を言っても、お前は納得しないだろうからな。論より証拠。百聞は一見にしかず、だ」
「君は一体……」
 何を言ってるんだ? と繋げようとしたら、柳橋の大きなてのひらが僕の目の前にかざされた。
「君、はやめろ。柳橋だ。奥村、頼むから俺のことを代名詞で呼ばないでくれ。俺はや・な・は・しだ」
 彼は名前の中に存在するひらがなを一つ一つ区切るようにして強調した。
 もしも彼が自分の体質について語ったことが本当ならば、名前にこだわるというのも分かる気がする。
 一日限りの存在である彼は、継続して名前を呼ばれたことがないはずだ。
 僕は彼のことを信じるのなら、彼がなんだかとても、不憫に思えた。
 おかしな話だが、僕より容姿も中身も動作も上出来の柳橋を不憫に思ってしまったのだ。
「柳橋」
「何?」
「飲みに、行くんだろう?」
「……ああ、そうだな。新宿だっけ? いいよ、俺は帰りの心配なんてしないから」
 柳橋は右手のてのひらにあった煙草の燃えカスを携帯煙草入れにきちんとしまってから、ヤケ酒なんか飲みたがっているお前の話をきちんときこうじゃないか、と意地悪そうに言った。
 僕は、代名詞で僕を呼ぶな、と柳橋の真似をしてやった。
「奥村」
「何だよ」
「信じてくれるか?」
「……僕は人一倍お人よしなのかもしれないっていつも思ってる。とりあえず、確証のないことは信じもしないし疑いもしないよ」
「お前の何か違うところはそこだ。あの女は頭悪いからその辺うまく言えなかったんだろうな。奥村は自分が何か違うことを決して気に病む必要はない」
「……一体いつから僕のそばにいたわけ?」
 柳橋が僕に声をかけてきたのは、彼女に振られて三十分以上経った頃だった気がする。それなのに、柳橋は僕らの会話を知っている。一体どういうことなのだろう。
「耳がお前の声を拾った。池袋に俺が着いたあたりだから、一時間くらい前か? 暇つぶしにお前の声とお前と一緒にいた女の声をたどってみたんだ。だから、お前らの会話は知ってるよ」
「説明されても、僕には一体どういうことなのかわかんないな」
 柳橋はううん、と唸って首をひねる。
「あのな、俺は大体のことは一般人より優れている。運動能力も、記憶力も、聴覚も視覚も嗅覚も。特殊な訓練をした人間よりも優れているはずなんだ。つまり、俺は何でも持ってるんだ。ギャンブルにもほとんど負けたことないしな。寂しければ女も寄ってくる。だが、さっきも言ったが俺にはたった一つ足りないものがある」
柳橋に足りないもの。
それが、人の記憶に残ることだ、ということだろうか。
夢物語かホラ話のようだが、なぜか信じてしまう自分がいる。柳橋はそれくらい、僕にとって現実味のない男なのだ。
「俺から見ればお前のことがとても羨ましいんだが。お前、親にも友達にも愛されて育ったタイプだからな」
 それは。……それについて、僕は何も否定できない。けれど。
「お前って呼ぶなって言っただろ」
 強がってみたんだ。
 柳橋にはその強がり方がよっぽどおかしかったらしくて、肩を震わせてくつくつとのどの奥で笑っていた。
 嫌味なやつだ。
「なあ奥村。酒よりもなぐさめてやれるもんがある」
「酒よりも?」
「身体」
 あっためてやろう、と柳橋に肩を抱かれた。
 僕みたいな平凡な男が、その声の熱っぽさに抗えるはずもなかった。





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