夏の魔物 夏休みになると智は毎年悩む。 このまま実家の寺で手伝いをするか。それとも兵庫の伯母の旅館でアルバイトをするか。 「どうしようかなぁ」 「智、今年はお姉さんのところ行ってあげて」 いつも伯母のところに逃げようとすると不機嫌になる母が、珍しく智をそちらへと向かわせようとする。不思議に思って小首を傾げると、母は嬉しそうに笑った。 「今年は経世学園がお姉さんの旅館なんですって」 「え? ほんとに?」 経世学園とは、全国でも指折りの甲子園常連校だ。 そこが智の住む西東京の代表に決まったのはつい一昨日で、今年は二年生ピッチャーがいい、という評判だったので将来性込みで楽しみにしていたのだ。 「だから忙しいのよ。手伝いに行ってやって」 「いいの?」 「いいの?って聞きながら、なぁにその顔」 母親がしょうがないわね、とでもいいたげに笑う。智の顔はそれほどまでに輝いているのだろう。 「行きたいんでしょ?」 「……うん」 野球の好きな智に、断る理由などなかった。 **** 兵庫県尼崎市にある伯母の旅館。 そこには智の苦手な従姉が二人いた。名前を明菜と美奈子という。 「ともー、玄関掃除してや」 「は? 何でだよ! 今日は明菜が玄関掃除だろ?」 「やかましなぁ。お姉様は二日酔なんやて、なんべん言えばわかるの?」 軽くウェーブがかった肩までの黒い髪を揺らして、明菜は智を睨みつけた。美人だが目つきの鋭い明菜の睨みには勝てた試しがない。 「美奈ちゃんがおらんかったらあんたの仕事やろ? はよゆけ」 美奈子の方は今日の食事の最終手配で忙しい。智も客室に布団やらを運び終えて一息ついていただけであって、明菜は朝帰りでもやることはやらなければいけないはずだ。小さな旅館の娘はそんなことなどわかりきっているだろうに、智がいるとついついその存在に甘えてしまうようだった。 「……横暴だ」 「お姉様に口答えなんて十年早いわ」 十年経ってもきっと明菜には勝てないだろうと思いつつ、智は渋々腰をあげた。 「明菜のばーか」 「へーへー。痛くもかゆくもないで。あんたにバカてゆわれたとこで腹も立たんわ」 「なんでだよ」 「うちで今一番バカみたいな顔しとるのあんたやし」 明菜は智の気持ちを見抜いているようだ。智は思わず顔を押さえてしまった。 今日から経世学園がやってくると聞いて、旅館内の空気は朝からそわそわしていたが、その中で一番そわそわしていたのはどう考えても智である。 水桶にひしゃくを沈めて、石畳に打水をする。 そんな単調な作業を繰り返しつつ、玄関先に理由つきでいられるのが嬉しかった。 「智ちゃん。来はったなぁ」 「え?」 ぼんやりととりとめのないことを考えつつ竹箒で玄関を掃いていた智は、きれいに磨かれた廊下から明菜よりも幾分柔らかな声がかかると弾かれたように頭を上げた。 美奈子はそんな智を柔らかい目で見つめている。 優しい風貌のおっとりした雰囲気をもっている明菜とは正反対の美奈子だが、本当は美奈子の方がくわせものだということを知っている智は、その一見優しげな笑顔に後ずさりをした。 「何……笑ってんの?」 「うちが笑うのはあかんの?」 「恐いんだよ」 「いややなぁ。楽しみにしてた経世学園の皆さんがいらっしゃったゆうただけやのに」 「え?」 そういえば外の空気がざわめいている。大型バスの姿も生垣の向こうに見えた。 「ほんとだ」 「ね? ああ、皆さんええ身体やね。ねえ、智ちゃん。智ちゃんは皆さんよりお兄さんなんやから、堂々と振舞ってな?」 「…………」 これを言いに来たのだ、と智は確信した。 大型バスからぞくぞくと降りてくる高校球児たちは、皆一様にいい体格をしている。智は大学二年生になったばかりだが、身長も体重も平均より少なめのコンパクトな風貌なのだ。これではどちらが年上なのか分からない。 智よりも身長の高い美奈子がわざわざこんな話題を口にして、智の悔しがる顔を見にきたのは明白だったので、智は美奈子の顔を見ないようにつとめた。 喜ばせてたまるか。 気が強い智のそういう態度は想像の範疇だったのだろう、美奈子はくつくつと笑う。 「智ちゃん、元気にお出迎え、な?」 「分かってるよ」 「ならええよ」 見上げると美奈子は、ふふ、と楽しそうに笑ったままだった。 話題の二年生エースはすぐに眼に入った。 すんなりと伸びた身長にすっきりと整った顔。 甲子園ファンの少女たちの注目株と騒がれるだけの容姿ではある。 そんなすっきりした全身の中で、右腕だけががっしりとして見えた。もちろん鍛えているのだろうから他の部位もがっしりしているだろうが、右腕以外は普通の高校生と変わらないように見える。 他の選手はおっさんみたいなのになぁ。 智はこっそりそう思った。 経世学園のような全国でも有数の強豪校は、その資金力で全国から必要な戦力をかき集めている。だから大抵の選手はがっしりと出来上がった体格をしているだけに、二年生エース・和泉は違う雰囲気をかもしているのだ。 「お世話になります!」 ずらりと並んで一斉に頭を下げる経世学園のメンバーの中で、智の目はそんな風に和泉に釘付けだった。 そんな智の様子に最初に気付いたのは手伝いに来てくれている近所の魚屋の陽太で、同い年のため幼馴染み的な存在になっている。陽太はにやにやと智の背中をつついた。 「なんや、智。羨ましいん? 大柄な子らが」 「別に俺、大柄になりたくないもん」 「強がらんでもええぞ。俺が最後は嫁にもろたる」 「遠慮する」 「つれないこと言うな」 「うるせえ……」 「智!」 苛立ちとともに陽太を振り返った智は、明菜の強い視線を真正面からくらって言葉を失った。 そうだ、まだ玄関先での挨拶だった………。 居並ぶ高校生たちが智を不思議そうな目で見ているのが居たたまれない。 ちくしょう、陽太め。 そう思いつつ無理矢理顔をあげると、和泉と目があう。 和泉は智をじっと見たあと、小さな笑みを浮かべた。 その笑みが思ったよりもきれいだったので、智は再び目が離せなくなってしまった。 NEXT BACK |
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