刺青





 寒いな、と瀬木は思った。
 外は曇っているのに明るく、視界をちらちらと白いものが遮る。道路もガードレールも、隣家の木々もうっすらと白い幕に覆われつつあった。
 白無垢のぽってりとした花嫁衣裳に似た印象の雪化粧が、歪んだ手延べガラスの向こうにある。
 世界は鈍い光を放って目にまぶしい。
「一色」
 外の世界とはうって変わって、ここは暗い。
 きれいに磨かれた灰色の石床の上に立っていると、暗い水底にそっと引き寄せられた心地がする。
 昼間は明りもつかない暗い水底は夜よりも深い。
 瀬木の声だけが一瞬響いて吸い込まれてゆく。
 しかし、すぐに水底の向こうにある再び明るい景色が開けた。
「おう、いらっしゃい」
 かたかたと少したてつけの悪い障子戸を開いて、一色が顔を出した。一色は夏でも冬でも和装で、粋でイナセだろなどと江戸っ子風を気取っているが、さすがに今日は綿入れ羽織を身につけていた。
 短く刈った頭に混じるようになった白髪が、さびしい雪みたいだなと瀬木はぼんやりと思う。
「何だ、瀬木さん。あんたまた一人で来たのか」
「悪いか」
「悪いか悪くねぇかは俺が決めることじゃあねえだろ。あんた一応若頭とかなんだろ?」
「関係ないな、特には」
 瀬木は上等な革靴を水底に脱ぎ捨てて、こまめに張替えをしているらしい畳の縁を無造作に踏んだ。
「畳の縁は踏むなって習ってんだろうが」
 苦々しげに一色は呟いたが、瀬木は気にしない。
 そのまま一色が入っていたコタツに足を入れて、赤い火の色を丸く放つだるまストーブに手をかざした。
 この関東の海沿いの地域で生まれ育ってもう半世紀になろうかという瀬木は、少し若い一色よりも白髪が少ない。禿げの体質でもないので禿げることもなく、鍛えあげられたたくましくしなやかな肉体とあいまってまだ四十前後にしか見られない。
 一色はその四十前後であるにも関わらず、白髪の目立つ老成した顔つきをしていた。
 俺は不惑をとうにすぎてあんたはまだ不惑になりかけだ、と酔った勢いで瀬木に告げて乱闘になったのはつい先週のこと。瀬木が「茶は」と告げた時、一色はもうすでに治った唇の端に反射的に舌で触れてしまった。
 その仕草を横目で瀬木が見ている。
 一色はそれを黙殺した。




 鉄瓶で沸かされた濃い緑茶を飲んで、二人でコタツに入る。
 時間が経つにつれはらはらと降り積もってゆく雪が、普段の晴れの日の太陽の光度に似てやんわりと外を明るくしだしていた。
 曇った空の下にあるかりそめの光。
 テレビもラジオもつけない四畳半の部屋で、瀬木と一色はだんまりと床の間にある丸い嵌め殺し窓の外の景色を見ていた。
 冬なので、そこからは折り良く椿が見える。
 赤とも紅ともつかない花の上に白いものがぽってりと覆い被さってゆく。艶やかな濃い緑の葉の上も白が塗り込めてゆく。
「お前、椿なんかあるのか」
 瀬木がぽつりと呟いた。
 一色はずずっと勢いよく茶をすすって、「俺んちのじゃねえ。隣んちのだ」と返す。
 再び茶をすする音が瀬木の耳に届いた。
「………風呂。入るぞ」
「おう」
 居たたまれなくなったのではない。仕事をはじめるのだ。
 二人とも胸でそう呟いて、決して目を合わせない互いの視線を背中に感じて目を瞑った。
「今日は彫り進められそうだな」
「……寒いだろう」
「寒い方がいいんだ。痛くねえよ」
「俺は、痛みには慣れてる」
「雪の日なんて彫り日和だ。今日は弁天様のお顔だな」
 背中合わせで交わす会話はどこか噛み合わない。
 それでも通じる。それで充分だった。
「顔は最後だと言っただろう」
「そろそろ最後じゃねえかと思うんだ」
「…………」
「あんたの背中に彫りつづけてこれで五年。風呂入るときも舎弟に見られるの嫌だっただろ。彫りかけが五年も続いたんだ」
「風呂なんかいつも一人で入る」
 瀬木が風呂場へ向かう重たい足音が、やけに荒々しい。
 雪の日は全ての音を吸い込んでしまう。
 世界中何も聞こえなくなったような、耳の奥がきりりとひねあげられたような、そんな痛みすら感じるというのに、その珍しい日に瀬木がいる。
 一色は何だか笑いたい気分になった。
 四畳半の、こたつにもぐりこんでいても手を伸ばせば開く押入れの中から、一番上に置いてあった木綿の浴衣を無造作に払って落とす。その下に置かれていた利休鼠の毛織の浴衣を取り出して、帯は濃紺のものを掴んだ。
 瀬木にはよく似合う色合いだろう。
 それを抱えて「どっこらしょ」と一色は掛け声をかけた。そんな年でもなければそんな重たい身のこなしでもないのは自分でもよく分かっている。
 ただ、そういう気分だっただけの話だ。
 板張りの廊下を障子戸にそって歩いた。障子が地面から明るい外の光を充分に取り込んで、目に痛いほどになってきた。
 今日は随分積もるらしい。
 もっと積もればいいのに、などと思ったのは雪が物珍しくて仕方なかった子供の時分以来だった。
「瀬木さん」
 曇りガラスの戸を隔てて、脱衣所で声をかける。向こう側の湯気が扉の隙間から漏れ来て、一色は少し息苦しい気持ちになった。
 一瞬水音が止まって、再びぶちまける音がする。
「何だ」
「入るぜ」
「何故だ」
「背中、見せろよ」
「お前に命令されるいわれはない」
「あのな、これも御代の内なんだよ。検分だ検分」
「…………」
 沈黙を了解ととった一色が曇りガラスの重たい引き戸を動かす。ゆるりと沈殿していた湯気がふわりと浮いて、一色の視界を明確にさせる。
 そこには、背中越しにじっと一色を見る瀬木の姿があった。
 いつ見ても白い肌がうっすらと赤い。鮮やかに色を入れた背中の墨は、もうほぼ完成といっても過言ではない。
 遠目には立派な弁天様が一色を見て嫣然としているようにしか見えないからだ。
 近づくと、まだ顔には墨が入っていないことに気付く。それでも、髪の一本や爪の先まで丁寧にいれられた墨は、瀬木の財産でもあり一色の財産でもある。
 そこにふと触れると、瀬木の肩の筋肉がぴくりと反応した。
「背中はあんまり擦るなよ」
「擦ってない」
「そうか。今更か」
「今更だな」
「……。ここ最近、何かでかいのあったか?」
「でかいの? ……もう、そういう時代じゃないだろう」
 瀬木がため息混じりにそう言ったのがやけにおかしくて、一色はくつくつと喉の奥で笑った。瀬木も自分の台詞がおかしかったらしい。
暖かい湯気に混じって、空気が微かに和らぐのが感じ取れる。
気のせいかもしれない。それでもよかった。
「時代か」
「時代だ」
「そうだな。そうかもしれねぇ」
「墨を入れるのも減ってきただろう」
「身体中に入れる奴は減ってきてるな。それでもなんだ、流行りか? 腕や胸元に入れる奴は増えてきたぜ」
「墨も随分軽くなったな」
 ふっと、瀬木の肩の力が抜ける。
 その背中にもたれたいという一瞬の激しい衝動を、一色は唇を噛むことで抑える。この五年の間、何度も襲ってきた衝動にはもう随分と慣れてしまって、唇を噛むのが先か衝動が走るのが先か分からないほどになった。
 それが積み上げた年月の意味であり、彫り進めた墨の色彩でもある。
 一色は手ぬぐいに石鹸の泡をふわりと絡めて、優しく瀬木の背中を撫ぜた。今まで背中を流したことなどなかった。襲い来る衝動に負けないように、瀬木の背中を洗うのは避けていたのだ。けれど今日、今まで避けていたことを後悔していた。
 このときばかりは、胸の内を渦巻く言葉に出来ないものが溢れても構わないと知ったのだ。
 その思いが瀬木へのものなのか、自分が丹念に彫り進めた刺青へのものなのか誰にも分かるまい。心置きなく目の前の背中にぶつけていいのだ、とやっと気付いた。
 気付くのはいつも遅い。だから本当の後悔などはしないけれど。



 ひんやりと冷気に囲まれた部屋で、一色は作業をする。
 寒い方が血の巡りが鈍って、彫られる方は楽なのだ。夏場は冷房の効いた部屋で、氷水に浸した手ぬぐいを当てつつ彫ることもある。
 横たえた瀬木の浴衣を上半身だけ剥いで、一色はじっと見つめた。瀬木は涼しい顔でうつ伏せに目を瞑っている。
「今日は細かい作業になるな」
「最後だからだろう」
「……今日で、終わりだ」
「ああ」
 瀬木が口を開く度に肩甲骨が緩くわらう。その肩甲骨を指で抑えて、一色は冷やしていた彫り道具を手に取った。
 細く長い針の先で、確かめるように図面をなぞり浅く溝をつける。もう随分昔にひいた図面だったが、瀬木の背中は五年間見てきている。一番いい表情を彫ってやれる気がしていた。
 
 弁天様を一つ彫ってくれ。
 
 射るような目でそう告げた瀬木は、あの頃四十前後だったか。
 一色は三十半ばの駆け出しではあったが、先代の技術をしっかり継いだ腕利きの彫師で、どこぞの組の組長の息子に彫った虎の図面が評判になった。
 その虎が動き出しそうな眼と色をしていると、組長が褒め称えたらしい。この世界、表に立つことなどほとんどないのだから、口コミだけが頼りになってくる。
 それ以来何人かすでに彫っていた。若造だったが自分の仕事に誇りは持てるようになっていた。
 そこに来たのが瀬木だ。
 四十過ぎなんて、若気の至りの墨入れをそろそろ悔やみだす頃だ。
 その時に彫りたい、と鍛え上げられたそれでいてやけに艶かしい白い背中を見せ付けられて一色は面食らってしまった。
 瀬木の背中に、ぱあっと広がる鮮やかな弁天様が見えてしまったのだ。
「あんた、女好きか」
 彫るとも彫らぬとも言わず、一色はまずそう尋ねた。
 瀬木は驚いた様子もなく、「女は要らない」と呟いた。この男はこんな体格で男に抱かれてきた人種か、となぜか理解した。
「だったら彫れる」
 そう告げてその日のうちに瀬木の背中に一心不乱に図面をひいたのを覚えている。
 覚えているどころではない。忘れられないのだ。
 最初に墨を入れた時の感触を、一色は今でも指先で反芻することができる。今の肌のはりも、あの頃と大して変わっていない気がしていた。
「弁天様は女嫌いな神様だ」
 輪郭に、薄墨を一針入れる。
「女と男が弁天様に会いに来ると、その二人は別れるとか。そんな言い伝えみたいのよくあるよなぁ」
 もう一針、少し深い色をのせた。
「あんたなら弁天様に嫌われねえよ。安心して背負いな」
 針先が皮膚に沈む度鮮やかに溢れる色彩が、一色の目に眩しかった。
 外を強く照らす雪の光よりも、瀬木の背中の深く落ちてゆく色に一色は目を奪われてしまう。その心の作用をなんと呼べばいいのか、一色は考えたことはない。
 考えてはいけない、と知っている。
 密度の濃い部分は彫られているほうの痛みが倍増することを知っている。顔は密度の濃い部分なので、輪郭を彫り終わった後、ふと見た瀬木の額に汗が光っているのを見つけた。
「瀬木さん。ちょっといいか」
 道具の先を氷水に浸して、一色は瀬木の額を手ぬぐいで拭った。
 そのとき微かに目の端を紅くした瀬木が「一色」と小さく名を呼んだ。
 一色には本当は彫師としての称号がある。しかし瀬木はその名を呼んだことが一度もない。今までずっと本名だけで呼んでいる。
 それが心地いいようでずっと辛かった。
「続けるぞ」
 乾いた手ぬぐいで道具の先をきゅっと拭って、一色は作業を続けた。
 もともと入れる墨の色は多様なのだが、白い肌に似合う濃い鮮やかな色を選んできた瀬木の場合は、通常よりも更に多い。
 一色の入れる緑は他所の彫師の入れる色よりもずっと濃いのは評判だったが、瀬木の場合は元来の肌の白さをかんがみて薄い灰色を合わせた緑で鮮やかさを出していた。
 そういう風にして、どんどんと色が多くなっていった。
 色を選ぶその作業一つ一つに瀬木を常に感じられるのがとても嬉しかったのだ。
 五十近いおっさん相手に何考えてるんだ俺は、と何度も何度も己を嘲笑した一色だったが、瀬木の背中を彫ると決めた時点でその弁天に囚われていたのかもしれない。
 女は要らない。
 素っ気なく言った瀬木の言葉が耳の奥を通って脳髄に深く染み込んでいる。
「一色」
 眉を深く細く彫る。
 その間に名を呼ばれた。
「何だ」
「一色」
「何だ」
 瀬木の声に、思わず指先が震えそうになってしまう。その震えの意味は知っている。けれど気付いてはいけないものだった。
 何も告げられない言葉が指先で震えて留まっている。いつもそれだけを認識して自制していた。
「一色」
 瀬木は一色の動揺を知っているのだろう。それでも声音を、追い詰める言葉の意味を弱めたりはしなかった。
 負けないように一色は濃い色を細く深く瀬木の背に叩き込んだ。
「く……ぅ」
 苦しげな声があがっても、その手を緩めることは出来なかった。
 追い詰められたのは一色で、追い詰めたのは瀬木なのだから。
 二つの眉とその下に細く切れ長の目を入れた。
 鼻と唇だけを残す段階になって、瀬木の息が荒く浅くなっているのに気付く。手ぬぐいで額と頬を伝う汗を拭って、「休むか」と尋ねたが、瀬木がひどく強い目で睨みあげたので、一色はそのまま彫りを進めた。
 鼻は目よりも薄い色で。
 少し浅めに、それでもくっきりと。
 針を打ち込むたびに瀬木から熱気が伝わってくる。触れ合っていない肌と肌の、熱気がぶつかって一色の気持ちは高揚していた。
「瀬木さん」
 思わず掠れた声で呼んでしまう。
「……なん、だ……」
「瀬木さん」
「……ああ」
 再び呼ぶと、瀬木が体の力を抜いて大きなため息を吐いた。その瞬間を狙って、艶やかに微笑む口元を彫り進める。
 優しい笑みにしてはいけない。
 『嫣然』は優しいの意味ではないからだ。
 口角は上げ気味に、上品で蠱惑的な。
「一色」
「知ってる」
「…………。そうか」
 うつ伏せたまま横を向いていた瀬木が、一色の望む口元を見せて笑った。



 自分の肌を伝った汗を無造作に拭ってから、横たわる白い背中と鮮やかな弁天様を見据えた。
 瀬木は起き上がるのにもう少し時間がかかるだろう。色を置き終えた場所を冷やして痛みをとる必要がある。
 随分と火照った身体はもう少し冷やすべきかと思って、窓を開ける。
 仕事部屋の窓はこの四畳半と同じ丸窓だが、嵌め殺しではない。からりと開くと少し風が出てきたのか、しんしんと落ちてゆくだけだった雪片がはらはらと舞い込むようになっていた。
「閉めるか」
「そのままでいい」
これではあまりに寒かろうと思って尋ねたが、結局いつもの愛想のない声が戻ってきた。その口調も態度もいかにも瀬木らしい。
 それがおかしくて、一色は手を伸ばして隣家の椿を手折った。
 花弁の端が微かに朽ちている。その更に濃さを増した紅に眼が吸い寄せられては引き離す。時を経たものを美しいと思ってしまうのはなぜだろう。
 一色はいつも、新しいものよりそういうものを好んでしまう。ふっと口の中で自虐的な笑みを浮かべて、一色は
雪が舞い込む窓の下にその花を置いた。
「何の真似だ」
 うつ伏せたまま低い声で問う瀬木に対して、何も言わずに自分は暖かな四畳半へ戻る。
 だるまストーブの上でしゅんしゅんと湯気を上げている鉄瓶をとって、急須に注いだ。
 仕事の間うっすらと湯に浸っていた茶葉はふやけてしまっていて、二度目でしかないのに出涸らしのようになっている。そんな薄い茶の入った湯呑みをじっと見つめて、一色は喉を潤すために飲み干す。
「瀬木さん」
 障子戸を挟んで向こう側の部屋にいる瀬木に声をかける。
 ややあってからくぐもった声で「何だ」と返ってきた。
「次来るときは…………」
 喉は潤したはずなのに、言葉はまだ喉に張り付く。
「次、何だ」
 容赦のないくぐもった声が一色を追い立てる。それでも言葉が出て来ない。
 しばらく流れた沈黙。そして、滑りの悪い障子戸が開いた。
 まだ痛みはとれないだろうに、来た時の背広をもうすでにきっちりと着込んでいた。
「……蝋でも塗っとけ」
 眉根を寄せて、不機嫌そうな瀬木はいっぱしの筋者に見えた。別にきれいな顔ではないのだ。むしろ男らしい。だというのに、どうしたことかやけに色気がある。
「悪いな。道具以外の手入れがどうにも苦手だ。気がまわらねぇ」
「気を回す必要はない。次は抱け」
「ああ。………分かった」
 そう言って見上げると、瀬木は目を細めて口角をあげて笑った。
 背中の弁天様に本当によく似ている。弁天様と瀬木は一つになれたんだ、と一色は確信した。
 まるで谷崎の刺青じゃないが。
「だったら俺は帰る」
 また畳の縁を踏み、瀬木は石床を踏み鳴らして出て行った。
「瀬木さん」
「何だ」
「あんた、迎えは」
「いない」
「そうか」
 出て行った瀬木の音を背に仕事部屋をふと覗く。
 窓の下にあった一輪の椿が消えていた。

 雪はまだ、はらはらと窓から部屋へと舞い込んでいた。



<了>


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